数々の謎を解き、全体像学ぶ――岩鼻通明『出羽三山:山岳信仰の歴史を歩く』(岩波新書、2017年)評
山形県に暮らしていて出羽三山を知らない者はいないだろう。県土の中央に位置する、羽黒山・月山・湯殿山からなる山岳信仰の聖地、修験道にルーツをもつ山伏の文化、そしてミステリアスな即身仏たちが集中して鎮座する土地――。
概ねそうしたイメージで知られるこの圏域は、しかし少し踏み込んでみると謎も多い。例えば、なぜ即身仏はこの地域に集中して存在しているのか。なぜ神道の聖地のはずなのにあちこちに仏教の寺院があるのか。そしてなぜ山形県内のみならず東日本の各地に湯殿山碑(出羽三山碑)が建立されているのか。
これらの問いに地理学・民俗学などの知見をもとに易しく答えてくれるのが本書だ。さまざまな勢力が錯綜する複雑な三山の歴史地理を俯瞰し、全体像を掴むのに最適の入門書である。著者は山形大学農学部教授。30年に及ぶ出羽三山信仰研究の集大成である。
本書によれば、もともと神仏習合の山岳信仰であった出羽三山は、二度の転機をへて現在の姿に落ち着いた。第一が近世初期、そして第二が近代初期だ。前者は徳川幕府の寺社法度のもと、羽黒山・月山が天台宗、湯殿山が真言宗を選択し、祭祀権が分岐したこと(これにより各宗派が信者獲得競争に奔走するようになり、それが江戸の旅文化の隆盛と相まって、三山総体が東日本随一の霊場へと発展していった)。そして後者が明治政府の廃仏毀釈で、修験道が廃止され、各祭祀主体が「神社」化を強制されたことにより、三山の祭祀権が「神社」に移管。現在の出羽三山神社となったのだった。
冒頭の謎はこれですべて解読できる。即身仏は、祭祀権を神道サイドに奪われた仏教側の新コンテンツであるし、寺院と神社の錯綜は神仏習合の名残、信仰圏が広大なのは多様な布教主体の競合の結果である。さながら、良質なミステリーの謎ときをじっくり味わうかのような読後感だ。
昨今は、NHK人気番組「ブラタモリ」のようなまちあるきが流行している。本書は、そうしたまちあるきの副読本としても最適である。春が待ち遠しくなる一冊だ。(了)
※『山形新聞』2017年03月07日 掲載