勝手にふるえてろ――椹木野衣『震美術論』(美術出版社、2017年)評
著者はかつて『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)において、戦後日本美術史の「閉じられた円環」を名指すべく「悪い場所」なる概念を提示した。そこでは、〈歴史〉が垂直に積みあがっていかず、忘却と反復とが永劫に回帰する。各自思い当たるところがあろう。
続編となる本書ではそうした忘却と反復が、戦後日本のねじれではなく、日本列島の大地動乱に由来するものとされ、時間軸を「戦後」以前にさかのぼっていきながら、列島の美術史が、その災害史を「地」とした「図」として再解釈されていく。それを著者に促したのは、いうまでもなく東日本大震災(2011年)の経験であった。
繰り返しやってくる災害ゆえに(災害がトラウマ=起源を構成することなく)〈歴史〉=アイデンティティの確立が困難となる「悪い場所」。そうした場所における「美術」とはどのようなものである/ありうるのか。本書が示すのは、大きく二つの方向性だ。
ひとつには、繰り返される災害を事前に伝えるメディアとしての「美術」、もうひとつは、おびただしい数の災害による死者たちを慰霊するための「美術」というものだ。著者はこうしたありようを「七難の到来に応えうる美術」と呼び、いうなれば「ふるえる美術史」を構想する。2017年に刊行されたにも関わらず、昨今の豪雨災害やコロナ禍について書かれているように既視感と共に読める本書は、確かに「ふるえて」いる。
とはいえ、そうした「ふるえる列島」が「悪い場所」の要因なのだとしたら、それは列島の美術史のみならず、あらゆる領域(政治/経済/社会/生活/文化/…)に〈歴史〉の不可能性をもたらさざるをえないだろう。もしそうなのだとしたら、いったい「七難の到来に応えうる政治/経済/社会/生活/文化/…」とはどのようなそれであろうか。
本書が美術史の記述において明らかにしたように、この「ふるえる列島」に生きる私たちにとって「悪い場所」が所与の環境なのだとしたら、近代日本が範としてきた西欧のような〈近代〉や〈歴史〉を求めても意味がないということになるだろう。そうした場所で、それでもなお私たちの誰もが自由かつ平等、そして幸福に生きられる社会を私たち自身の手で求めていくとしたら、それはどういった営みとなるだろうか。換言すると、私たちに――「戦後民主主義」ならぬ――「災間民主主義」は可能だろうか。 (了)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?