はじめに――社会学という視座
■どうしてこんなに〈生きづらい〉のか?
みなさん、こんにちは。滝口克典と申します。現在は山形市に住んでいて、同市を拠点に仕事をしたり活動したりしています。主に「社会学」「社会教育」「NPO・市民活動」といった分野で教えたり書いたりしていて、専門にしているのは「社会問題」――人びとの〈生きづらさ〉――と〈居場所づくり〉です。
これらのテーマについて調べたり考えたりしながら、それを教えたり書いたりしているわけですが、わたしは専業の研究者ではありません。もともとは県立高校の教員(常勤講師)でしたが、あまり自分に合わないなあと思い、その後は「NPO・市民活動」の世界に移り、そこをずっと自分の足場にしてきました。
筆者が活動を始めたのは2001年、いまから20年以上前です。学校を辞めたあと、そこでの違和感について誰かと話したい、共有したいと思ってもやもやしていました。当時、たまたま山形市内で県内初のフリースクール開設の運動が始まろうとしていて、なんとなくそこに混ぜてもらうことになりました。
フリースクールとは、不登校の子どもの〈居場所づくり〉のこと。家庭や学校に〈居場所〉が見いだせない子どもたちのために、〈第三の居場所(サードプレイス)〉を社会的に準備していこうという活動ですが、〈居場所がない〉のは不登校者に限らないため、この活動はその後さまざまな分野に広がっていきました。
筆者たちも、最初は「不登校」を対象に〈居場所づくり〉を始めましたが、その後「不登校」の枠を外し、「来たい人は誰でもどうぞ」の〈子ども・若者の居場所づくり〉へと移行していきました。「ぷらっとほーむ」という名で、2003~19年までの16年にわたり山形市内でフリースペースを開いてきました。
とはいえ、〈居場所づくり〉に制度や法律があるわけではありません。不定形であいまいで、自分たちでさえ何をしているのかよくわからないような活動でしたので、常にそれをふりかえり、〈ことば〉を与え、自身の位置を随時把握する必要がありました。そこで役に立ったのが「社会学」という道具だったのです。
■「その人がわるい」は本当か
フリースペースを訪れるのは、その多くが何らかの〈生きづらさ〉を抱えた子ども・若者たちです。「不登校」や「ひきこもり」、「ニート(若年無業者)」、「フリーター」などの不安定労働者、「性的マイノリティ」、「ろう者」をはじめとする障がい者、「移住者(UJIターン)」など、その内実はさまざまでした。
こうしたカテゴリーの人びとと向き合うとき――とりわけ彼(女)らを支援するというとき――、私たちがついやってしまうのは、その〈生きづらさ〉をその人のせい、もっというとその人の性格や行動、ふるまいなどに原因があるものと考え、それを取り除こうとすることです。「自己責任論」と呼ばれる発想です。
例えば、その人が不安定労働で苦しんでいるとして、それを「その人の努力や準備が不足していたからそうなった」と捉え、彼(女)にさまざまな就労訓練を行ったり資格をとらせたりするようなアプローチです。問題を個人に還元して捉えるので「個人モデル(医療モデル)」と呼ばれます。
でも、彼(女)がどんなにがんばって個人的な努力を重ねても、雇用状況そのものが悪ければ就職は困難です。ある人がなんとか就職できたとしても、別の誰かは必ずそこから零れ落ちます。つまり、「自己責任論」や「個人モデル」では「自己啓発」以上のものにはなりえません。ではどうするか。
ここで役立つのが「社会学」の発想です。それは、社会問題や〈生きづらさ〉を個人に還元せず、それをその人にもたらしている、その人をとりまく社会環境に照準します。その人がダメになったから問題がおきたのではなく、環境が変わり、それとの相互作用のなかでその〈生きづらさ〉が生じたと捉えるのです。
こうした視座を採用することのメリット――「認識利得」といいます――は、苦しみを抱える当人に理不尽な努力や強さ、負荷を求めることなく、その人をとりまく環境にアプローチすることで、その人の〈生きづらさ〉を軽減したり解消したりできるということにあります。要は、人にやさしい方法だということです。
■「社会」は〈ことば〉でつくられる
人を変えるのではなく――そんなことは不可能です――その人をとりまく環境を変える。これが「社会学」の発想がもたらす認識利得でした。とはいえ、「社会を変える」なんてこと、金も力もない自分たちになどできっこない。結局は〈生きづらさ〉をなくすことなんてできない――そう思われた方もいるでしょう。
でも、「資本や権力がなければ、社会を変えられない」というのは本当でしょうか。そもそもが「社会を変える」とはどういうことで、何が変われば「社会が変わった」ということになるのでしょうか。ここでも「社会学」の知見がヒントを与えてくれます。
「よくわからない何か」にであったとき、私たちは不安や恐怖を感じます。それらを解消すべく、私たちはその何かに「名前」をつけ、「定義」を与え、「意味」や「位置」を確定して鎮撫します。その名づけや位置づけに人びとが合意を与えたとき、無秩序(カオス)は平定され、秩序(コスモス)が成立します。
つまり、社会とは、人びとがそこに与えている名前や意味の体系(システム)を意味します。言い換えるとそれは、人びとのコミュニケーションによって編まれた〈ことば〉の織物(テクスト)だということです。とすれば、それは同じく〈ことば〉やコミュニケーションを通じて編みなおすことができるはずです。
〈ことば〉に照準し、その織物として社会を読み解いていく立場を「構築主義」――「社会構築主義」または「社会構成主義」――といいます。この考えかたは、社会のしくみのほころびともいえる社会問題や〈生きづらさ〉を扱う際に特に力を発揮します。それらは、私たちにとって「よくわからない何か」だからです。
「よくわからない何か」を適切につかまえ、なるべく多くの人が傷つかずにすむかたちで馴致していけるような〈ことば〉。そうした〈ことば〉が、私たちの周りにはあまりにも不足しています。だから生きづらい。この本は、「社会学」由来のそうした〈ことば〉たちをみなさんに届けようという試みです。
■本書の構成
この本は、全部で13の章から成り立っています。それぞれの章が、現在の日本に存在しているさまざまな〈生きづらさ〉に照準していて、その背景となる「社会問題」の成り立ち、そしてそれを解決するための人びとのさまざまなとりくみが合わせて紹介されています。
具体的には、社会問題(1章)、災害(2章)、原発避難(3章)、地方消滅(4章)、メディア・コントロール(5章)、現代家族(6章)、差別(7章)、こどもの貧困(8章)、非正規雇用(9章)、ブラック企業(10章)、ひきこもり(11章)、ホームレス(12章)、自殺(13章)がそれぞれ扱われています。
ひと通り読んでいただければ、「社会問題」から見た日本社会の現在地の俯瞰図を得られることでしょう。しかし、山形県内の読者のみなさんにしてみたら、「それじゃ、山形の場合は?」ともやもやが残るかもしれません。そこで、章ごとにそのテーマに因んだ県内市民活動の事例ルポを2本ずつ付記してあります。
これらの事例ルポは、筆者が約10年前より地元紙『山形新聞』で連載してきた県内における市民活動レポート「ヤマガタ青春群像」(2013~17年)、「多文化ヤマガタ探訪記」(2018~ )の掲載記事から各テーマに該当するものを選んで再録(一部加筆)したものです。全部で30本ぶんを収録しました。
「社会問題」というと、どうしても「全体の問題」とか「中央の問題」とかがイメージされがちで、自分たちに身近な、生活や日常と連続した問題とつながらないこともしばしばです。解決策の見えなさもそこに連なっているように思えます。身近な事例もあわせて掲載しているのは、そうした罠を避けるためです。
この本は、初学者向けのテキストとして書かれたものです。本書で入門を果たした後どこへ向かうかは読者のみなさん次第ですが、先に学んだ者のつとめとして「further reading/watching」のガイドを最後に提示してあります。偏りのあるガイドかとは思いますが、これからの旅のおともにどうぞご活用ください。(了)