価値なきものたちをどう生かす?――眞並恭介『牛と土 福島、3.11 その後。』(集英社文庫、2018年)
「3.11」というのは多種多様なモチーフが絡まり合った複合的なできごとなので、どの場所から見るかによってさまざまな描かれかたというものが成り立つ。本作は、福島の――東京電力福島第一原発事故のもとでの――動物、とりわけ牛とそれをとりまく人びとから見た「3.11 その後」の経験を追いかけたルポルタージュである。著者は、現代社会における動物の意味を問い続けてきたノンフィクション作家。
災害時にペット同伴で逃げるという行動が、近年少しずつ社会的な認知を獲得しつつある。では、畜産農家などで飼育されている産業動物はどうか。もちろんいっしょに連れていくわけにはいかない。避難生活が長期化し、そのあいだ世話する者がいなければ餓死してしまうのは必然だろう。2011年3月以降、原発事故に見舞われた福島県浜通り地方の畜産農家が遭遇したのはそうした状況だった。
さらに、人びとと動物たち、そして両者が生きる大地の上に降り注いだ放射性物質は、動物たちからその経済価値を剥奪することになった。汚染された農作物の出荷制限・禁止が出されたためである。このままでは破産してしまうという農家の人びとに対し、追い打ちをかけるように政府が命じたのは「すべての家畜の殺処分」であった。餓死か、あるいは殺処分か――これが、原発事故下で動物たちが強いられた理不尽である。
こうした理不尽を泣く泣く受け入れた人びとの一方で、その両者に抗い、政府と対峙しながら牛たちを生かし続けている牛飼いたちが存在する。「もはやカネにはならないのだから殺してしまおう」という論理――評者自身も本書以前に内面化していた新自由主義の論理だ――に抗い、牛たちを生かすとしたらそこにはどんな意味を見出していけばよいだろうか。本書には、彼(女)らが「牛たちが福島で生きる意味」を創出していく戦いの過程が詳細に描かれている。
本書は、狭義には「福島 3.11 その後」を描いたノンフィクションではあるが、そこで問われている問題は、新自由主義のあらしが吹き荒れるポスト3.11の私たちの現在にそのまま直結するものである。「カネにならない」「生産性がない」「社会の役に立たない」等など――そうした無駄で無意味で冗長な存在たちに、私たちはどうやって〈居場所〉を与えていけばよいだろうか。福島の牛飼いたちのとりくみはそうした問いへのひとつの回答となっている。(了:2023/08/20)