見出し画像

不登校という選択

子供が「学校に行きたくない」と言ったら、保護者はどうするのが良いのでしょうか?

私の長女は、小1の次女より17歳年上で24歳です。
現在は東京のかなり隅っこのほうで、絶賛子育て中です。
4歳になる男の子と、7月に生まれたばかりの女の子がいます。
今日はその長女の話。

長女は小学校1年生からずっと、断続的不登校でした。私自身もあまり学校が好きではありませんでしたが、みんなが行っているし、一人だけ違う事が出来ずに仕方なく行っていた感じです。いじめられたりもした事はありませんし、単純に外の世界に出ることのハードルが高かったんだと思います。

長女は勘が鋭いところがあり、大人の嘘を見破ってしまうところも原因だったのかも知れません。
「先生は言ってることと考えている事が違うんだもん」と話された事があり困惑したのを覚えています。
担任教師によって出席が順調だったりもしました。

当時はネットもSNSも発達しておらず、不登校の子供を抱える保護者の横のつながりは無く、ひとり悩む日々でした。育て方が悪かったのか?どこか悪いのか?

保護者懇談会に出席すれば、周りは皆、「楽しく学校に通っています」と口々に近況を報告していました。

スクールカウンセラーも無い時代だったので、相談する相手も見つからず、毎朝、「今日は学校に行ってくれるだろうか?」と怯えながら子供を起こしていました。

本人は、一旦は学校に行こうと靴を履くものの、「やっぱり行かない」とぐずり始め、私は宥(なだ)めたり煽(おだて)たり、叱ったり、あらゆる声掛けをして送り出そうとします。
しかし、学校に行けないのです。
仕事も行かなくてはいけない、学校には行ってくれない、誰にも相談が出来ない。
完全に八方塞がりでした。

1年生のある日、色々悩んだ挙句、児童相談所に相談に行きました。するとそこでたまたま担当してくれたのが、山脇由貴子さんでした。
山脇さんは溌剌(はつらつ)とした笑顔で、個性的なドレス?を纏い、古びた建物の薄暗い廊下を颯爽と歩いてこちらに近寄って来ました。背筋がピンと伸びていて、自信のありそうなその姿に、カッコイイな…と思いながらも、少々気遅れしてしまった私。上手く喋れるか不安でした。


面談室に入ると、
「学校なんて行かなくても後からいくらでも取り返せるし、いろんな生き方があるんじゃない?」とさっぱりとした笑顔で、悩む私に言いました。
そう言われても、みんなが行っている。みんなが出来ている事が自分の子供だけ出来ていない。劣等感の塊の私は、全く受け入れられませんでした。

学校に連れて行こうと一緒に家を出発しても、途中で逃げ帰ってしまいます。仕方なく一人で学校まで行き、担任の先生に「連れて来られなかったので、今日もお休みします」というと、
「明日はテストがあるんですよ!必ず連れて来て下さい!」と強く言われ、私は泣きながら帰宅しました。完全に思考は停止、心も折れていました。
「連れてこいって言ったって、こんなに嫌がっているのに、一体どうしたらいいのだろう」いっそのこと、娘を殺して自分も死んでしまおうか・・・
キッチンで包丁を握りしめる事も1度や2度ではありませんでした。

しばらく後になって娘から聞いたのですが、この時の担任の女性教諭は、

「ヒステリー。怒ると止まらなくなって延々怒鳴り続けてたよ。病気なのかなって思った。ひとりの子をターゲットにして、怒鳴り始めると止まらないから、隣のクラスの先生が止めに来た時もあったんだよ。それを見るのが嫌だった。なんか大人って嫌だなって」

そんなこんなで、小学校を卒業し、中学に行っても不登校は続きます。
「お休みすると、次の日行きづらくないの?」
「別に〜」
「お友達から何か言われたりしないの?」
「『あ、今日来たんだ!』って感じで普通に喋るよ」
「勉強わからなくなったりしないの?」
「教科書に書いてある事を喋ってるだけでしょ?」

こんな調子で、学校は不登校気味なまま高校受験を迎えます。

学校に行かない分、塾では真面目に勉強していたらしく、成績はいつも中の上でした。学校はサボって夜は塾に行くという生活です。
「淡々と説明してくれて、あとはわからないところだけ丁寧に教えてくれるから楽。余計な事言われると混乱するから」

いつもクールなのでした。

志望校を決める時期になった時、娘がボソリと、
「通信制の高校も良さそうなんだよね」と言って来たのが印象に残っています。
しかし、地方出身の私は通信制高校にあまり良い印象はありませんでした。
「ふうん・・・」とだけ返事をして聞き流してしまった事、今でも悔やんでいます。

結局受験したのは、都立の総合高校でした。カリキュラムは入学前にシラバスを読んで、受講する講義を登録し、3年間での取得単位数が決められているという、単位制の高校でした。

一般受験をし合格した時には、クールな娘も喜んでいました。
ただし通学に1時間半かかります。大変な3年間になりそうです。
入学前にシラバスを読み込んでいる娘の姿は、とても楽しそうでした。
山脇さんが言っていた、「いくらでも取り返せる」というのは本当だと思いました。

高校に入学し、本格的に講義が始まると、勉強はそれなりに大変そうでしたが、写真部に入り、先輩たちとカメラを持って小旅行に出かけたり、それなりに充実していたようでした。ただし、やっぱり時々休む事はありました。
そして、1年生の終わる頃のある日、突然結婚すると言い出したのです。
彼氏がいる事は知っていたし、家にも遊びに来ていました。9歳上の社会人です。
お母さんが重い障害があったせいか、とても優しい気の利く青年です。そのお母さんが急死して、義理父と3人で暮らすことにしたらしいのです。

「学校は?」私は本当に焦りました。せっかく順調に通い始めたのに・・・

「先生には通信制高校に編入できるようにお願いしたんだ。先生のお友達で通信制高校の校長先生してる人がいるんだって!その高校なら家からも近いし、勉強も続けられる。私にはそっちの方が合ってそうなんだよね!」
今までこんなに自分のやりたい事をはっきり言って来た事はありませんでした。

自分で自分の生きる道を決めたんだな・・・と、その真っ直ぐな視線に私は胸のつかえが取れたと同時に、鉛のような重い感情が芽生え、いたたまれない気持ちになりました。

違う・・・決めたんじゃない。きっと決まっていたのに、言えなかったんだ。

先生や親からは、学校に行く事を強要され、みんなと同じに出来ない自分を責めていた事だろう。小学校1年生からずっと、山脇さんに担当してもらったカウンセリングも、児童相談所のシステムなのか、中途半端なところで担当が変わってしまった。唯一今の自分を「オーケーそれでも大丈夫」と言っていくれていた味方とも会えなくなり、どれだけ絶望的な気持ちになっていたのだろう。。。

自分が今までこの子にして来た事は、間違っていたのかも知れない。
もっと早く気づいてあげられたら、私は涙を流しながら包丁を握る事も、泣きながら通学路を歩く事もせずに済んだかも知れない。
厳しい言葉を浴びせたり、時には手をあげる事もあった。あの極限状態の日々を過ごさずに済んだのかも知れない。。。と、取り返しのつかない日々を思い返し、胸が締め付けられるように痛んだ。

高校の担任の先生から、転校にあたって、書類の準備をするので一度学校に来て欲しいと言われました。

彼氏も含めた4者面談はとても明るい雰囲気でした。
娘はニコニコだし、先生は40代前半の女性教諭で、それなりに場数を踏んでいるらしく、
「ユキちゃんの成績ならどこでも通用するし、自学も出来ると思いますよ。さすがに退学はもったいないなーと思っていたので、通信で学んでくれるなら私も安心!ユキちゃん!頑張ってね!」という終始和やかな、最後の個人面談でした。

という事で、せっかく入学した高校から、一応編入試験を受けて、通信制の高校に編入。2年生からは通信制高校に通うことになったのです。

授業はスクーリングのみ。あとはひたすら教科書を読み、レポートを書く毎日。もともと動物が大好きだったからか、最寄駅(バス停まで徒歩15分、バスで30分かかる)近くのペットショップでアルバイトも始めた。義理のお父さんと3人の生活はそれなりに順調だったようで、義理父からもユキちゃんユキちゃんと可愛がられている。バイトと、学業、主婦業を彼女は難なくマイペースにこなしていた。

高校の卒業の時期になって、卒業式はどうするのかと聞いてみた。

「んー、どっちでもいいや。別に思い入れもないし笑」と娘。

「えー、ママは見てみたかったけど。」

「そう?表彰もあるらしいんだよね。」

「何それ?」

「成績上位者の、なんか・・・」

「それ、行かないとまずいんじゃないの?」

「そうかなー・・・」

という事で、まだ1歳の次女を連れ、卒業式に参列したのでした。

あとで聞いた話ですが、大学進学も勧められ、
「お金ないから」と言って断っていたら、特待生の制度があると言われたらしいのですが結局、

「勉強は好きだけど、大学で勉強するのはちょっとイメージ湧かないんだよね。それだったら、もっと本当に行きたい人いるだろうから、その人が行けばいいやと思って。やる気のない自分が行くのは勿体ないでしょ?」

不登校で学校に行かない間、多分同級生の何十倍、何百倍の事を考える時間があったんだと思います。

思考が人間を育てるのは本当です。

何も教わらなくても、何も与えられなくても、考える時間というのはかけがえのない学び、自己研鑽なのです。
私が八方塞がりだと思い込み、グズグズと立ち止まっている間、娘はたった一人、苦しみながらも自分の足で確実に歩んでいたのだと思います。
周りの雑音をシャットアウトし、自分と向き合い、違和感と戦いながら、それでもこの東京の片隅に確かに存在しているんだと、目を背けずにたった一人で戦っていたんだと思います。
そして、その戦いに勝利した瞬間だったのかも知れません。

長女からもらった、沢山の「ママいつもごめんね。」という手紙や、スチールラックの目立たないところに、「ママいつもありがとう」と書かれていたメッセージ。「がんばってね」という手作りのバースデーカードも、私の失敗を戒めつつ、見捨てないでくれた娘からの教えが詰まっています。

私が17年ぶりに子供を授かったのは奇跡でした。
きっと神様がワンチャンくれたのだと思いました。


不登校は行けないんじゃない。学校という環境が必要なかったんだ。
それを自ら漠然と理解し、自ら選択していたんだ。。。それなのに私はひたすら目を背け、自分の絶望しか見ようとしなかった。

私のように、「行きたくないけどみんなが行くから」という人生にも、それなりの将来があるように、「行かない」という選択をした彼女にも、しっかりとした未来がありました。

今の、楽しそうに自由に生きる彼女を見て思う事は、

「この子にあの学校教育は必要なかった。そういう場合もあるんだ。」

だから次女には、

「学校に行きなさい」とは決して言わない。

それは彼女自身が選ぶ道なのだから。

私は彼女が選んだ道を、ただただ応援することしか出来ないのだ。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?