【長編小説】六花と父ちゃんの生きる道 第八話 お母さんの秘密の小部屋
家に着いて電気を点けると、父ちゃんは相変わらず畳の部屋で布団を被っていた。さっきと体制がちょっと違っているし、布団は呼吸するようにわずかに動いていたから、六花は安心する。
冷蔵庫に行ったら、残りわずかだった食料がなくなっている。父ちゃんは大丈夫。六花はエコバッグに入っているコンビニの商品のことを思った。
そんなつもりじゃなかったけど、随分長いこと持ち歩いてしまった。傷んでいるかもしれない。冷蔵庫に入れるのは危険だ。
いまの父ちゃんは、腐ってるとか腐ってないとか、美味しいとか美味しくないとか、考えてもみないのではないか。おなかを壊されてはめんどうだ。
六花は商品をエコバッグごと、野菜室の奥にしまい込んだ。あとで点検することにしよう。なにが無駄だって、この買い物が一番無駄だった。
でもコンビニで買い物しなければ、三本足の犬に出会うこともなかった。商店街に行ってみることもなかった。たこを買うこともなければ、中村くんのおばさんに会うこともないし、バスボムを買うことも、お母さんに献花することもなかった。
「不思議だなあ。世界は私の理解の及ばないところで動いていますよ。お母さんの言う通り。」
六花は呟くと、洗い桶に水を貯めて、そのなかでブーケの茎の下のほうを少しだけ切った。お母さんのお気に入りだった、ちょっと歪で手作り感のあるグラスに、花を飾る。
グラスを持って、遺影の傍に置いた。六花の幼い頃に描いた、下手くそなお母さんのクレヨン画の遺影。自然とため息が出る。
「これですよ。最大の問題は。」
個性的すぎる遺影問題を解決するために、六花は写真屋さんに寄ったのだ。お母さんの写真なんて、死ぬほどあるはずだ。お母さんが生まれてからずっと撮りためてきた、何冊ものアルバムがどこにあるか、六花はちゃんと知っていた。きちんと見たことはなかったけど。
六花が物心つく頃には、スマホかデジカメで写真を撮る時代になっていたけど、そしてそれらの写真はプリントアウトされることもなく、そこここに眠ったままになっているけど、昔の写真はちゃんとある。
もちろんデジタル化されたあとの写真を探し回ることもできた。お母さんは比較的若くして亡くなったから、病気でなく事故で亡くなったから、健康的で美しい姿を見つけることは、きっとできるはずだ。
亡くなる直前の写真を飾ることは、一般的みたいだ。叔母さんの家に遊びに行ったときもそうだった。おじいちゃんの写真も、おばあちゃんの写真も、歳を取ってからのものだった。
白髪頭のおじいちゃん。おばあちゃんは長患いをしたから、すっかりコケてしまって、プロに修正してもらって、頬を少しふっくらした感じにしてもらったのだ。
六花の考えはだいぶ違う。ひとは、一番美しく、一番輝いていたときの姿を残しておくべきだと思うのだ。毎日眺めるものだから、とびっきりに輝いていた時代の姿を。
六花の勝手な想像では、おそらくは父ちゃんと結婚したばかりの頃や、六花が生まれて間もないくらいの頃のお母さんは、とびっきり輝いていたと思うのだ。
そのくらいの時代のものは、アルバムに残っているのではないか。もちろん、勝手な想像だけど。
六花は幼かったのだから、記憶にはない。もしかしたらデジタル化されているのかも。それでも六花は、お母さんのアルバムを見たかった。
生まれた頃、幼い頃、六花と同じくらいの頃、きっと綺麗だったに違いない、青春時代。どんなひとたちと、友達だったのだろう。どんな場所に旅行に行っていたのだろう。考えるだけでわくわくした。
時計を見れば、もう五時半過ぎだ。まずい。きょうはやることいっぱいあるのに。六花は立ち上がると、階段を上がった。
二階は六花の部屋だが、素通りする。屋根裏部屋に続く、細い階段を上がってゆく。そこはお母さんが趣味の読書をしたり、手芸をしたりする、秘密の小部屋なのだ。
屋根そのままに、天井が少し斜めになっているその部屋には、お母さんの痕跡がたくさん残されていた。裸電球を点けて、使い込んだクッションと、その前にある古びた木の机を見た。
作りかけのキルトが、脇に畳んで置いてある。机の上に、本が何冊か積んである。飲み物を置くためのコースターも乗っていた。
六花は恐る恐る、お母さんのクッションに座ってみる。驚いた。目の前は、とっても大きなはめ殺しの窓になっていて、斜めになっているその窓から、だいぶ暗くなった夕空が見えるのだ。
星がひとつ瞬いている。金星かな。よくわからないけど。筋を引いたような薄い雲が、太陽の最後の光に照らされて朱く染まっていた。
座ってしまうと、街並みは消える。空だけの見える場所。街の灯りが入ってこないから、暗くなりかけた空が、とても鮮やかに見える。
こんな素敵な場所に、お母さんは居たのだ。
机の上に置いてある、ガラスのホルダーに入ったキャンドルが気になって、ライターを探す。
籐製のかごのなかに、長めの柄のライターが何本か入っていたが、かごのなかには色とりどりのキャンドルがぎっしり詰まっていた。それに驚いた。知らないことばかりだ。
恐る恐る、机の上のキャンドルに火を点けてみた。ちらちらと揺れだす炎。まもなく甘い匂いが漂い出した。これは……これはきっと、バニラの香りだ。
思い出せばお母さんは、抱き着くと、いつもいい匂いのするひとだった。甘い感じの匂いがすることが多かった。思わずぼうっと、炎を見つめてしまう。
お母さん、豊かな生活を送っていたんだな。私が思っていたよりもずっと。秘密にするなんてずるいよ。お母さんらしいけどさ。
机に積んである本を眺め、一番上に乗っていた文庫本を手に取ってみる。江國香織というひとの、『ぼくの小鳥ちゃん』という本だった。童話のような、優しくて可愛らしい表紙絵。
本の途中に、洒落たステンレスのしおりが挟まっていた。ここから先の物語を、お母さんは読んでいないのだ。
「六花が読むね。必ず読む。おはなしをあとで話して聞かせるよ。」
六花はそう約束して、本を元に戻した。どんどん時間は経ってしまう。六十年代風のポップで洒落た壁掛け時計は、五時四十五分を指していた。
アルバムは左の棚にわかりやすく並べられていた。何年から何年まで、と、一冊一冊丁寧に書かれていて、お母さんの生まれた年から始まっている。左が一番古く、順番通りに、右にいくほど新しくなってゆく。
本当は全て眺めたいところだが、急いて見るのは嫌だった。ゆっくり、じっくり、味わいたいのだ。なんだか少し、怖くもあったし。六花の知らないお母さんを知ることになるのだから。
一番右のアルバムに手を伸ばす。これが一番新しいはずなんだけど。このアルバムは、ほかの無機質なアルバムとは全然違った。
可愛いピンクの花柄で、なんだかやたらと分厚く、年代も書いていなかった。六花は取り出すと、決定的な事実に衝撃を受けた。
鍵がかかっていたのだ。
(第九話につづく)
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