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決戦ではなく持久戦によって敵と争う場合は消耗戦略が適している

19世紀から20世紀前半までは、決戦によって敵の軍隊を撃滅することが戦略にとって最も基本的な原則であるという考え方が軍事学の主流でした。しかし、それは現在では必ずしも正しくないと考えられています。これは決戦によらずとも、持久戦によって敵を衰弱、消耗させる方が、有利な条件で交渉を進めることができる場合があることが分かってきたためです。

以下では、持久戦で敵を徐々に衰弱させる消耗戦略の考え方を説明するため、20世紀に活躍したドイツの歴史学者ハンス・デルブリュックの学説を取り上げ、解説してみようと思います。

殲滅戦略だけが戦略のすべてではない

世界史で有名な名将としては、アレクサンドロスカエサルナポレオンなどがいますが、彼らはいずれも決戦によって敵を捕捉撃滅できるように軍隊を運用しようとしていました。従来の研究者は、これらの戦略が理想的なモデルと評価していたのですが、デルブリュックはそのような一面的な解釈には欠陥があると考えました。

デルブリュックは世界史で名将とされるペリクレスベリサリウスヴァレンシュタイングスタフ・アドルフフリードリヒ二世の戦略を調べ、いずれも敵軍に決戦を挑むことには慎重であったこと、決戦ではなく持久戦によって敵を衰弱させることを重視していたことを指摘しています。この視点から、決戦によって敵を撃滅することだけが戦略ではないという立場が導き出されました。

デルブリュックは決戦を追求するタイプの戦略を殲滅戦略(Niederwerfungsstrategie)、持久戦を継続するタイプの戦略を消耗戦略(Ermattungsstrategie)として区別し、戦争史においては殲滅戦略よりも消耗戦略の方が支配的な時期があったと主張しました。殲滅戦略とは、自らの要求を相手が受け入れざるを得ない状況に追い詰めるため、敵の主力を探し求め、戦闘を挑み、そして撃滅しようとする戦略です。

消耗戦略は自らの要求を相手に受け入れさせるため、敵を衰弱させ、疲弊させ、消耗させようとしますが、戦闘を遂行することは必ずしも重要ではなく、味方の損失を抑えるために、本格的な戦闘になる状況を避けようとします。

ペリクレスが立案した消耗戦略の特性

消耗戦略は味方が敵よりも戦闘力で劣勢であったとしても、十分に実行が可能であり、その成否が軍事力の優劣に依存する度合いが少ない戦略だといえます。例えば、敵と味方の双方が殲滅戦略を採用している場合、両軍の主力が参加する決戦の勝敗が直ちに戦争全体の結果を左右することになります。しかし、決戦を挑んだとしても、勝ち目がないほど味方が劣勢な状況であれば、敵と同じような殲滅戦略を採用することは不利益にしかなりません。

そのような場合、消耗戦略を選択し、敵との戦闘を可能な限り避け、決着がつく時点を先延ばしにするように部隊を運用する方が有利です。このようにして得た時間の猶予を使って、敵の部隊を疲労させれば、敵が大軍を引き連れていたとしても、いずれ戦闘力を低下させていきます。

デルブリュックが消耗戦略の典型的な事例として取り上げているのは、ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)でアテナイの戦争を指導したペリクレスの戦略です。アテナイは敵国のスパルタと開戦する際に、経済力の分野で優位に立っていました。ペリクレスはこの優位に着目し、侵攻してきたスパルタに対して持久戦を挑む計画を立てました。まず、アテナイ軍はスパルタ軍との野戦を避け、籠城戦を行います。スパルタ軍は陸上戦で優れた能力を発揮できますが、城塞があればその攻撃を長期間にわたって防ぐことが可能と見積られました。

もちろん、ペリクレスの消耗戦略は、単なる籠城戦の計画で終わったわけではありません。ペリクレスはアテナイ海軍を動員し、艦隊を遠隔地へ派遣する作戦計画を立案しています。この艦隊はスパルタを支援する国々を海上から攻撃します。つまり、スパルタ軍の主力が攻撃を行っている間に、アテナイは海からスパルタを封じ込め、戦意を挫こうとしたのです。

まとめ

戦略を研究するとき、殲滅戦略を唯一のモデルと見なしていると、ペリクレスの消耗戦略の優れた特性を見落とすことになります。ペリクレスはスパルタ軍と決戦に陥ることを避け、アテナイ軍を籠城させることで持久戦に持ち込もうとしました。ペリクレスは海上作戦においては攻勢の立場をとり、積極的、主動的に戦闘を挑むことによって、スパルタ軍の消耗を加速させ、早期に戦意を喪失するように仕向けていました。

ただし、いかに事前に立案した戦略が優れていても、成功を収めるとは限らないのが戦争です。スパルタ軍が侵攻し、アテナイ軍が籠城戦を続ける最中に、アテナイの城内では正体不明の感染症が猛威を振るい、多数のアテナイ軍の将兵が病死し、市民の犠牲者も急増しました。ペリクレスがこの感染症によって命を落としたことから、ペリクレスの戦略は後継者たちに引き継がれませんでした。この出来事は、ペロポネソス戦争でアテナイがスパルタに敗れる原因の一つとなるのですが、それはまた別の話です。

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武内和人|戦争から人と社会を考える
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