第一次世界大戦の経験をもとに機動戦の可能性を追求したフラーの考察
20世紀のイギリスの軍人ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは、第一次世界大戦に参加した経験を踏まえ、それまでの軍事思想を見直し、より流血が少ない戦争のあり方を模索した人物でした。戦争は破壊と殺戮とほとんど同じものとして考えられる傾向にありますが、フラーはそのような先入観に反対し、戦争を遂行する上で破壊と殺戮が必須のものではなく、将来的にはより犠牲が少ない方法で戦争目的を達成できることが重要だと主張しました。
フラーは『戦争の再編(The Reformation of War)』(1923)という著作を出版していますが、そこでは将来の戦争において国家が軍事力を運用する際には、社会的、経済的な損失を小さくするため、政府の意志、国民の意志を挫く方法が必要だと論じています。
ここで問題となるのは、人間の意志それ自体を直接的に打撃することはできないということです。人間の意志は物理領域に存在する物体ではないので、対象者の意志を打撃するためにその対象者の身体を打撃するという方法をとらざるを得ませんでした。フラーはこのような過去の慣例があったために、第一次世界大戦でも多くの国民や軍人が戦争の目標は破壊と殺戮であると誤解していたと振り返っています(Ibid: 29)。実際には破壊と殺戮それ自体は戦争において相手の意志を打撃する手段の一つでしかありません。そのため、破壊や殺戮を他の戦争手段で置き換えることができるのであれば、それを選択することが合理的です。
フラーは、指揮官がこうした目標を達成できるかは、敵の物質的、精神的な組成を把握して、その弱点を特定することにかかっていると主張しています(Ibid.: 43-46)。フラーは、ボクシングで選手が相手の顎を狙って打撃するが、それは顎それ自体を叩くためではなく、そこを打撃することで相手の頭蓋骨を振動させ、神経系の中枢である脳が運動を調整する機能を阻害できるためであることを指摘し、敵の組成を理解した上で脆弱性を特定する意義を比喩的に説明しています(Ibid.: 49)。
戦場で交戦する部隊にとって脳に相当するのは指揮官であり、その存在を考慮しない打撃は実施すべきではありません(Ibid.)。通常、敵の頭脳である指揮官に打撃を加えることができるような状況は、その身体である部隊が組織的に行動できなくなった後だと考えられており、フラーも真っ向から敵の指揮官を打撃できない場合が多いことには同意しますが、奇襲、包囲、突破、消耗という戦術行動によって、敵の指揮組織を麻痺させ、さらには崩壊に追い込める場合があると主張しています(Ibid.: 50)。フラーは消耗の価値は限定的としており、代わりに奇襲、包囲、突破の意義を強調します。これらは敵の部隊を殺傷し、敵の装備を破壊する以上に、敵の後方地域に設定された指揮組織を脅かすことで、組織的な戦闘行動を不可能にできるためです。
フラーは1918年にイギリス軍で装甲車両、特に戦車の衝撃力を活用して敵の後方地域に前進し、鉄道駅、補給処、通信所を攻撃することで恐慌状態を引き起こすことを構想したことがありました。フラーは西部戦線に展開するドイツ軍の大部分を崩壊させるには、およそ80kmから160kmの正面でこの攻撃を行うことが必要であると見積もり、1919年の実行に向けて準備を進めていましたが、1918年11月に終戦を迎えたことで作戦を実行に移すことはありませんでした(Ibid.: 118)。そのため、フラーはその後、戦車のような装備が使用されたのは西部戦線の戦闘が特殊な条件で生起していたためであるという見解を批判し、将来の地上戦では騎兵が戦車に置き換えられるだけでなく、攻撃戦闘の主力になると予想しています。
フラーの主張の中にはその後、否定されたものも多くあります。例えば、フラーは対戦車砲の発達によって歩兵が戦車と交戦するようになる可能性を十分に予見していませんでした(詳細は論文紹介 機甲戦の将来を大胆に予想したフラーの理論の意義と限界)。ただ、フラーの軍事思想の射程は必ずしも機甲戦に限定されているわけではありません。フラーは戦争における破壊と殺戮は最小化する機動戦の初期の理論家であり、縦深打撃で敵の指揮組織を打撃することで組織的な行動を不可能にするという発想は、後にアメリカの機動戦の研究にも影響を及ぼすことになります。
参考文献
Fuller, J. F. C. (1923). The Reformation of War. Hutchinson.
参考文献
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