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なぜウクライナとロシアに交渉の動きがあるのに、戦闘が止まらないのか

少し前から、ウクライナとロシアの間では外交交渉の動きも活発になっていますが、依然として最前線では激しい戦闘が繰り広げられています。外交が動いているのに、なぜ双方は戦闘を止めることができないのか、疑問に思われている方が少なくないと思います。

この疑問を解消するためには、19世紀のプロイセンの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツの理論を知っておく必要があります。彼は戦争では軍隊の戦闘行動それ自体が交渉の材料になると説明しました。これは戦争を社会的事象として理解するための最も基礎的な視点です。

まず、クラウゼヴィッツは、政治的な交渉がまったく行われておらず、軍事的手段だけが使用された架空の戦争を考え、それが現実の戦争とまったく異なった結果になると指摘しました。一切の交渉が行われていない戦争であれば、交戦国は味方の兵力で敵の兵力に最大限に損害を与えようと図り、最終的には敵の兵力を壊滅に追い込むまで戦闘を止めようとしないでしょう。そのため、戦争が終わったときに、敗北した敵軍には一兵も生き残っておらず、勝利した味方の兵力によって敵国の全土を占領し、無条件の降伏を強いるはずです。

しかし、歴史的にこのような戦争はめったに起きていません。双方にある程度の兵力が残っている状態で終戦を迎えることが普通です。これは戦争が交渉の一部として遂行されているためだとクラウゼヴィッツは説明しています。交戦国は戦争によって双方が被る損失の大きさを利用して、互いの要求を相手に押し付けようとします。軍事的な優劣が明白な状況であれば、戦闘で敗色濃厚になった交戦国は、自軍が全滅して無条件の降伏を強いられるかもしれないと予想するため、交渉で積極的に譲歩した方が合理的です。

ただ、軍事的な優劣が不明確で、どちらが最終的に勝者となるかが判然としない状況であれば、双方とも自分から譲歩することの合理性が判断できず、外交努力を重ねても合意に達することができません。そのため、外交を推進するためにも、戦略として戦闘を重ねることが必要となるのです。これが外交交渉と戦闘行動が並行して実施されている理由です。

クラウゼヴィッツは、戦争遂行においては敵の軍隊を一挙に壊滅させ、将来的に二度と抵抗ができなくなるほどの損害を与えることが戦略的に有利だと論じたことがあります。もし戦闘力を集中的に使用して敵に大打撃を加えることができれば、敵にもはや勝ち目はないと思い知らせることができるので、戦争を短期間で終わらせることが期待できるためです。この戦略思想は決戦によって敵を撃滅することを重視する殲滅戦略と呼ばれており、19世紀から20世紀の前半にかけて多くの軍人から支持されていました。

しかし、殲滅戦略の有効性には限界があるという議論もあります。ドイツの歴史学者ハンス・デルブリュックは戦闘で勝敗を決することを避け、時間をかけて敵に損耗を与える消耗戦略も重要な戦略だと論じました。デルブリュックの見解によれば、消耗戦略では殲滅戦略のように決戦に軍隊を投入することを避けようとするので、いつまでも決着がつかない持久戦に移行します。小規模な戦闘が繰り返されることになりますが、同時に両軍が長期にわたって作戦を遂行し続けることを余儀なくさせます。結果として、軍事力の優劣ではなく、軍隊の作戦を支援する経済力、あるいは国民が軍隊を支持する能力が戦争の結果を大きく左右するようになります。

現在のウクライナは消耗戦略を採用しており、当初からロシア軍と決定的な戦闘に陥ることを避けようとしています。これはウクライナ軍の兵力の損失を最小に抑制し、戦闘が長く続くことをロシアに予見させる効果があるでしょう。ロシアの立場で考えれば、最終的にウクライナを屈服させることができたとしても、それまでに支払わなければならない費用の見積りが莫大なものになります。このような予想をロシアが持てば、ロシアは基礎的な軍事力で優越していたとしても、外交交渉において自国の要求水準を引き下げる原因となり、ウクライナは、より有利な条件を提示できるようになります。

まとめると、ウクライナとロシアの外交交渉が進んでいるとしても、それだけでは戦闘を停止するわけにはいかない理由は次の2点です。(1)戦争においては外交交渉で双方が有利な立場を主張しようとするため、戦闘行動で敵よりも有利な結果を出す必要がある。(2)ウクライナはロシアに対抗するため、消耗戦略を採用しているため、長期にわたって戦闘を継続する能力があることを示し続けることが交渉を進める上で必要になっている。

普段、このような戦略のことを考えることはほとんどないと思いますが、このような知識を持っていれば、戦争に対する見方は大きく変わると思います。戦争は多くの人々の生命と財産を奪う惨禍であることは間違いありませんが、その動向を根本の部分で左右しているのは交渉であり、政治家たちであることを改めて認識させられるのではないでしょうか。

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武内和人|戦争から人と社会を考える
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