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論文紹介 なぜ英国は1982年のフォークランド侵攻を予見できなかったのか?

1982年4月1日、イギリスが統治する大西洋の離島フォークランド諸島にアルゼンチン軍の部隊が上陸し、最初の交戦が発生しました。同日、イギリス政府はフォークランド諸島に向かう任務部隊の編成を発表しましたが、当時首相だったマーガレット・サッチャーに対し、野党はアルゼンチンの軍事行動を事前に察知することに失敗した責任を追及しました。確かにイギリスは事態が動くまでアルゼンチンが軍事行動を開始する政治的、軍事的条件を注意深く考慮していたとはいえませんでした。研究者のリーボウ(Richard Ned Lebow)は、サッチャー政権が内政の課題を強く考慮していたことが情報の失敗の一因であったという可能性を指摘しています。

Lebow, R. N. (2007). Revisiting the Falklands Intelligence Failures. RUSI Journal, 152(4), 68–73. doi:10.1080/03071840701574755

まず、後知恵で当時の状況の推移を振り返ってみると、アルゼンチンが軍事行動を起こす兆候が複数あったと著者は述べています。1982年3月2日にアルゼンチン政府はイギリス政府との交渉を打ち切り、フォークランド諸島を奪還するための「他の手段を求める」権利を留保すると発表しました。3月3日、アルゼンチン軍に好意的な新聞では交渉に対する不満が表明されており、イギリスが主権を放棄することに同意しなければ、3か月以内にフォークランド諸島は武力で解放されると予測していました。3月14日にはアルゼンチン空軍の輸送機C-130が、技術的な問題が発生したことを理由に、ポート・スタンリー空港に緊急着陸するという出来事も起きていました。

アルゼンチンの戦略を考える上で興味深いのは、スクラップ事業の従業員であるアルゼンチン人の一行が、3月19日にサウスジョージア島に上陸し、アルゼンチンの国旗を掲揚するという出来事があったことです。サウスジョージア島は、サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島の一部を構成するイギリスの海外領土であり、フォークランド諸島からは1000kmほど東に位置します。アルゼンチン海軍は、アルゼンチン人を保護するという名目で3隻の軍艦をサウスジョージア島に派遣していました。イギリスの情報組織はアルゼンチン海軍の艦艇に搭載された補給品の在庫が戦時を想定したものであることを3月28日から29日に察知しています。3月29日にはアルゼンチンのメディアがアルゼンチン艦隊と行動を共にする海兵連隊に糧食、武器、弾薬が配られたことを報じ、3月31日にイギリスはアルゼンチン海軍の海上部隊がフォークランド諸島に向けて移動し始めたことを把握しました。4月1日にアルゼンチンの外務大臣からイギリス大使に対して紛争を解決するための外交のルートが閉ざされたと伝えています。

これだけの兆候があったにもかかわらず、イギリスが後手に回ってしまったのはなぜでしょうか。著者は、当時のイギリスの閣僚はアルゼンチンが以前から武力による威嚇を繰り返し経験しており、今回の件もブラフである可能性を考慮していたことを指摘しています。この経験からフォークランド諸島に対するアルゼンチンの攻撃が差し迫っていたにもかかわらず、イギリス政府はアルゼンチンの脅しはブラフであると誤認し、攻撃を抑止することも、防御することもできなかったと論じています。ここで注目すべきは、アルゼンチンが過去に繰り返した政治的なブラフが、戦略的奇襲を可能にしたということです。

情報活動の世界で相手の行動がブラフであるかどうかを判断することは簡単なことではありません。イスラエルは、軍事的な脅威が差し迫ったものであるかどうかを判断するため、停戦ラインに沿って展開するエジプト軍の部隊の動きを監視していましたが、その時期は予備役の動員や架橋の準備、国内の軍事施設を戦時警戒態勢にするなどの措置を武力攻撃の準備の指標として重視していました。しかし、1971年12月、1972年12月、1973年4月から5月にかけて、これらの指標に合致する動きが確認されたにもかかわらず、エジプトは武力攻撃を開始することはなかったのです。

その後、イスラエルは指標を見直していますが、これにも問題がありました。エジプト空軍がイスラエルの飛行場を打撃できるかどうかを指標として位置づけたのです。イスラエルはエジプト空軍がイスラエルの飛行場を打撃できるようになるためには、ソ連軍の装備を戦力化する必要があると判断し、1975年以前に武力攻撃が実施される可能性は極めて低いと評価しました。しかし、1973年10月にエジプトはシリアと連携してイスラエルを奇襲することに成功し、第四次中東戦争を開始しています。戦後のイスラエルで実施された調査で、イスラエルの指標に欠陥があったことが指摘されており、エジプトの軍事作戦において必ずしも航空優勢の獲得が前提とされていなかったこと、エジプトが控え目な目標を達成するために限定戦争を遂行する可能性が考慮されていなかったことが指摘されました。エジプトは、航空優勢を獲得する代わりに地対空ミサイルを中心とする防空システムを活用しました。

この情報活動の難しさに加えて、政策決定者が短期的な利害に縛られる傾向にあったことも見過ごすべきではありません。アルゼンチンの脅威が迫っていたとき、イギリスのサッチャー政権は財政上の必要から海軍予算を削減したばかりで、非難の材料となる恐れがありました。また、イギリス海軍を展開する上で後方支援能力が十分に確保できるのか懸念もありました。アルゼンチンが軍事行動の兆候を示したとき、こうした政治的考慮が情報評価に影響を及ぼした影響があったと著者は解釈しています。

政治家は危険な兆候を認めることができても、抑止に必要な行動を選択できるとは限らないことを理解しておくことが重要です。特に繰り返しブラフを行っている国家の意図を常に正確に知ることは困難であり、関連する情報の評価には不確実さ、曖昧さがあり、奇襲の可能性を想定しておかなければなりません。

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武内和人|戦争から人と社会を考える
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