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独ソ戦を新たな研究成果で見直した『モスクワのための戦い』の紹介

1941年6月22日、ドイツがソ連に対する大規模な攻勢をとったことで、独ソ戦(1941~1945)が勃発しました。ドイツ軍の快進撃を受けて、ソ連軍の部隊は各地で退却を強いられ、主要都市を次々と奪われました。ソ連軍がドイツ軍に対して初めて本格的な反攻を開始した戦闘が1941年10月に始まったモスクワの戦いであり、これは後の独ソ戦の展開を左右する画期的な戦闘だったと考えられています。

すでにモスクワの戦いに関する研究は数多く行われていますが、David Stahelがケンブリッジ大学出版局から出した『モスクワのための戦い(The Battle for Moscow)』(2015)は最新の研究成果であり、軍隊の公文書である作戦日誌や報告書だけでなく、将校や兵士が書き残した個人的な手紙や日記などが丹念に調べ上げられています。

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著者はモスクワの戦いはドイツにとって軍事的にも、経済的にも実行が困難な戦略に基づいて実施された絶望的な戦闘であり、ドイツ軍が敗北を喫することは避け難かったという解釈を示しています。ドイツ軍がソ連軍に対する作戦に投入した戦力の規模は、ソ連の領土の面積、人口の規模、経済的能力、軍事的能力を総合的に考慮した場合、あまりにも少なすぎました。特に作戦の遂行を支援する輸送手段や補給物資の不足は最後まで解消されず、ソ連軍の物量で圧倒されました。

それにもかかわらず、ドイツがモスクワへの進撃を断行した理由として、著者はドイツ軍の首脳部で致命的な誤認があったことを指摘しています。ヒトラーは独ソ戦が短期間で終結するに違いないと確信しており、その根拠として第一次世界大戦でドイツ軍が東部戦線でロシア軍に対して何度も勝利を収めた実績があることを挙げていました。このような認識は東部戦線で従軍した経験があった当時のドイツ軍の将校の間でも共有されており、またスペイン内戦(1936~1939)冬戦争(1939~1940)でソ連軍が苦戦した経験も、その認識を正当化しているように考えられていました。

確かに、独ソ戦が始まった当初のソ連軍はドイツ軍の攻撃を防ぎきれませんでした。ドイツ軍は奇襲の効果を利用して一挙に前進し、ミンスク、スモレンスク、キエフなどの主要都市を奪取し、占領地を順調に拡大していきました。しかし、ソ連軍は退却を繰り返す中でも組織的な抵抗力を完全に喪失することはなく、後方では首都のモスクワを防衛するための準備が進められていました。他方でドイツ軍の部隊はあまりにも長距離にわたって前進したために、本国の基地から十分な支援を受けることができなくなり、常に物資の欠乏に苦しめられるようになっていました。

この欠乏はあまりにも深刻なものだったので、前線で指揮をとる指揮官や幕僚の間では1941年10月にモスクワに対する攻撃を開始する前の段階から成功が期待できないという見方が広まっていました。ソ連は民間人も動員してモスクワを巨大な要塞に作り替えており、何十万個もの地雷を設置し、ドイツ軍の攻撃を待ち受けていました。また、ソ連軍は300個以上の師団を新編し、火砲、航空機、車両の生産体制も拡充しつつありました。指揮官の戦術能力で比較すれば、ドイツ軍にはソ連軍にはない優位がありましたが、ソ連軍には多数の人的損耗を許容できる優位があり、これは戦闘の勝敗を左右する重要な要因となりました。

10月にドイツ軍がモスクワを目指して攻撃を開始すると、懸念した通り各地で激しい抵抗を受けました。ドイツ軍の戦闘部隊は、可能な限りの手段で、前進を続けようとしましたが、寒さが厳しくなる中で戦闘力を維持するためには、より多くの燃料が必要でした。しかし、後方支援部隊で物資の輸送に従事する軍馬は低栄養、凍傷、肺炎で次々と命を落としました。路面が凍結したことにより、車両は低速走行を余儀なくされ、長時間の運転を強いられた運転手は過労状態になり、頻繁に事故を起こしました。低速走行で車両の燃費が悪化したこともあり、わずかな燃料の備蓄はあっという間に枯渇していきました。

11月にモスクワを目指すドイツ軍の攻撃はほとんど停滞し、一部の部隊指揮官からはこれ以上の前進は不可能であるという声が上がり始めました。著者はこの11月はヒトラー政権の誇大妄想に近い戦略の実行可能性に対して、前線から初めて異論が出された重要な時機であったことを強調しています。事実、11月の中旬までにドイツ軍は戦闘力を喪失する状態に陥りました。兵站支援が不十分な状態で無理に作戦を強行したことが、ソ連軍に絶好の機会を与えたのです。

モスクワの戦いでソ連軍は物量の優位だけを頼りにしていたわけではありませんでした。ソ連軍はドイツ軍が戦いを挑んできた当初から、ぎりぎりの戦闘力で防衛線を支え続けており、可能な限り多くの部隊を予備として拘置していたのです。この予備があったために、ソ連軍は11月末から反撃に転じることが可能でした。無理な進撃で疲弊していたドイツ軍は、依然として本国の指令に基づきモスクワへの攻撃を試みていましたが、そのためにソ連軍の反撃に対して防御することが妨げられてしまいました。

ヒトラー政権はソ連の能力を見くびり、作戦が失敗する危険性を事前に検討しませんでした。さらに、作戦が進展する過程で兵站に重大な問題が発生していることが判明したにもかかわらず、無理にモスクワへの進撃を強行したことも問題でした。著者の研究は、モスクワの戦いでドイツ軍がソ連軍に敗北を喫したことに必然性があったという解釈を裏付ける根拠を豊富に示しています。

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武内和人|戦争から人と社会を考える
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