「意図せざる戦争」の脅しが交渉において効果を発揮する:シェリングの考察
政治学では、自分が武力を行使する決意の強さを示して脅すことにより、相手に特定の行動を思いとどまらせる抑止戦略や、逆に特定の行動を選択させる強要戦略が分析されています。これらの戦略に共通しているのは、自分の決意の強さを相手に確信させることに失敗した場合、自分が実際に武力を行使する必要に迫られる危険があることです。
このような身動きがとれない状況に陥ることを避けるためには、もし相手の行動を自分の思い通りにコントロールできなかった場合には、「必ず」武力を行使すると述べることを注意深く避けるという方法が考えられます。「おそらく」あるいは「もしかすると」などの表現を用いれば、抑止や強要に失敗した後で武力の行使を余儀なくされる状況に自らを追い込むことを避けることができるでしょう。しかし、そのような表現を用いて交渉することは、相手にこちらの真意を疑わせるので、抑止戦略や強要戦略の効果が犠牲になります。
トーマス・シェリングは、『紛争の戦略』でこのような場合にどのような戦略が最適であるのかを考察しています。シェリングは、いざというときの逃げ道を用意しつつ、抑止や強要の効果を保つような戦略を組み立てることが可能だと主張しています。それは「実行されるかどうかは自分にも分からない」という不確実な要素を脅しに組み込むことであり、これは「意図せざる戦争(inadvertent war)」に基づく戦略といえます。この記事では、これがどのような考え方に基づいているのかを解説します。
シェリングは、危機的状況が発生すると、恐怖、混乱、誤報、狂気、意図の読み違いなどによって、自分だけでは制御できないエスカレーションが発生する場合があることを最初に確認しています。これは一般的に望ましいことだとは考えられていません。しかし、シェリングはこれを逆手にとることができると主張しています。
大胆な発想の転換です。確かに、武力の行使によって戦争を引き起こすと脅すのではなく、「意図せざる戦争」が発生するリスクを高めると相手を脅すことができるなら、武力の発動を避けつつ、抑止戦略や強要戦略の効果をある程度確保することができると考えられます。シェリングは、この戦略を実行する上で重要なことは、相手を脅すときに自分では意図できない要因が作用して、エスカレーションが制御不可能な速さで進むかもしれないと前もって信じていることです。この条件が満たされているならば、抑止や強要は可能であり、また成功しなかったとしても開戦する以外に打つ手がないという状態を避けることができるでしょう。
シェリングは、この戦略は平時の危機交渉の局面だけでなく、作戦と並行して進められる戦時交渉にも適用が可能だと論じています。この場合、戦争の規模や範囲を制限しておき、その上でこの制限された戦争を続けるほど、全面的な戦争にエスカレーションが進むリスクが高まるという脅し方を考えることができます。このような戦略の前提となる限定戦争をシェリングは「リスクを製造するものとしての限定戦争」と表現しています。
ここでシェリングが指摘していることは、相手に何らかの行動を思いとどまらせたり、あるいは何らかの行動をとらせる上で、単に限定戦争の継続を通じて脅すことができるということだけではありません。より重要なことは、限定戦争の遂行において、戦争の規模や範囲を確実に制限するような行動が戦略的に望ましくないということです。これは私たちの直観に大きく反する議論だと思います。しかし、シェリングの見解では、限定戦争を全面戦争にエスカレートさせる確率をゼロよりわずかに高い確率にしておくことが、戦略的には有効だと考えられています。当事者の視点から見て、戦争が次第にコントロールできないものになっていくという予測を持たせることができるときに、それは彼らの意思決定に強く作用するような脅しとなるのです。
シェリングの戦略理論それ自体には強く反発する人々もいるはずですが、抑止戦略を構築するときに、実際に行動を起こした敵に対して、こちらから全面戦争を挑む以外に手がなくなることを避ける狙いがあるということを考慮すれば、このような戦略理論に一定の合理性があることは理解できるのではないかと思います。私たちには本能的に不確実な結果を避けようとする傾向がありますが、シェリングの戦略理論はこの傾向を逆手にとったものと解釈できるでしょう。ただし、引き返せない一線を超え、当事者がもはや全面戦争が不可避であると判断する恐れがあることは忘れてはならないとも思います。
参考文献
Schelling, T. (1960). The Strategy of Conflict, Harvard University Press.(邦訳、シェリング『紛争の戦略 ゲーム理論のエッセンス』河野勝監訳、勁草書房、2008年)