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核の時代における防衛知識人の働きを記したThe Wizards of Armageddon(1983)の紹介

フレッド・カプラン(Fred Kaplan)はアメリカの防衛問題を専門とするジャーナリストであり、その著作は戦略研究の教科書でも紹介されています。『アルマゲドンの賢者たち(The Wizards of Armageddon)』はカプランの代表的な業績の一つであり、1940年代後半から1980年代のはじめにかけて、アメリカの核戦略に影響を与えた防衛知識人の活動を追跡しています。

冷戦期の核戦略については、冷戦終結後に数多くの優れた研究が出ているので、その内容には部分的に古くなった点も見られますが、本質的な価値は依然として損なわれていません。1991年にスタンフォード大学出版局から再版されており、電子版もここから入手することができるようになっています。まだ核戦略が手探りだった時代から、次第に運用思想が確立されていく過程が詳細に記述されています。

Kaplan, F. (1991). The wizards of Armageddon. Stanford University Press.

この著作は秘密指定が解除された文書だけでなく、個人的な記録や、さまざまな関係者を対象にした面接調査をもとにして書かれています。そのため当事者でなければ知り得ない事実も数多く盛り込まれています。1945年に日本でアメリカ軍が初めて原子爆弾を使用した直後からアメリカの政府関係者の一部から核兵器が将来の世界に与える影響を懸念する見方が現れていました。

バーナード・ブローディは核兵器が拡散するリスクを具体的に指摘した上で核戦争のリスクをいち早く警告した研究者でした。彼は1945年9月19日から22日まで開催されたシカゴ大学の会議で講演を行っており、これからの世界では国家が絶えず臨戦態勢を維持する必要があり、動員を行うための時間的猶予は残されない可能性が高いと主張しました。

また、戦争で双方が核兵器を使用すれば、社会と経済に大きな損害を与えることになるので、核兵器は予防戦争を誘発する恐れがあると同時に、核戦争の被害の大きさが戦争を思いとどまらせる可能性もあると主張しました。この段階ではブローディとしても、核兵器が国家を戦争に引きずりこむ兵器なのか、あるいは平和を維持することに寄与するのか判断がついていなかったようです(Kaplan 1991: 26-7)。

ブローディは1946年に国際政治の専門家と共にこの問題を検討した共著を発表していますが、その際に原子爆弾が戦争の性質に与える影響を一般的に述べるだけではなく、アメリカ軍が核兵器をどのように運用すべきであるかを提言しました。例えば、アメリカの国土防衛を担っていた海軍の伝統的な機能が陳腐化し、防御戦が困難になったことや、原子爆弾の供給に必要な原材料を確保する意義、多数の価値が集中する大規模目標として都市が最適な攻撃目標であることなどを論じていました(Ibid.: 30)。

特に最後の核攻撃の目標選択に関する議論はその後の核戦略で繰り返し議論される重大な問題となりました。まず、核戦争において有意義な攻撃目標はそれほど多いわけではないということが論点となりました。ブローディは「どちらかの当事国に2000個の爆弾があり、他方の当事国の経済を完全に破壊できるのであれば、他方が6000発を持っており、一方が2000発を持っていたところで、その意義は相対的に小さなものでしかないと」と指摘しています(Ibid.: 31)。また、このような大規模な被害をもたらす兵器を運用する唯一の合理的な軍事政策は抑止(deterrence)でしかないとも主張し、勝利が確実なものだとしても、それを達成することには何の意味もないとも主張しました(Ibid.)。

この考え方は、その後のブローディの核戦略理論の原点となりました。1950年にブローディは朝鮮戦争の進行を踏まえ、軍事的な考慮だけで戦略爆撃に原子爆弾を使用することに対して反対の記事を発表し、体系的な分析に基づく目標選択が必要だと主張しました(Ibid.: 38)。この記事を読んだ一人がアメリカ空軍のローリス・ノースタッド(Lauris Norstad)参謀次長代理であり、第二次世界大戦の経験から目標選択、すなわちターゲティングの問題の重要性について認識していました(Ibid.)。

すでに1949年にソ連が最初の原子爆弾の実験を成功させていました。そのため、1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍は北朝鮮軍に対して苦戦していた韓国軍を支援しつつ、ヨーロッパでソ連軍と核戦争になることを想定した準備を急いでいました。

1950年4月の時点でアメリカ空軍が年内の開戦を想定した計画では、保有する原子爆弾およそ300発弱を使用することが検討されていましたが、これらをどのような目標にどれだけ使用すべきであるかについては十分な研究ができていない状態でした(Ibid.: 39)。そのため、ノースタッドは、ホイト・ヴァンデンバーグ参謀総長にブローディを空軍参謀本部のコンサルタントとして雇い入れ、軍事機密にアクセスさせた上で検討に参加させることを提案し、これが認められました(Ibid.: 40)。これは研究者が核戦略の実務に参加した最初期の事例として位置づけることができます。

それ以前にもブローディは、第二次世界大戦でアメリカ軍の戦略爆撃の効果を研究したことがありましたが、ターゲティングの方法がひどく稚拙であることを疑問視していました。そのため、機密情報にアクセスしたときにも、その内容が杜撰であることに衝撃を受けました。当時のアメリカ空軍の構想としては、ソ連を崩壊に追い込むために核兵器を使用することを考えていたのですが、ブローディは第二次世界大戦の戦略爆撃から進歩していないことに深い懸念を持ちました(Ibid.: 45)。

また、ブローディは開戦と同時にすべての原子爆弾を一斉に敵に投下することに空軍がこだわっていることに対して困惑を表明しました。核兵器の運用を担う戦略航空軍団カーチス・ルメイ司令官に対してブローディは一部の原子爆弾を予備として拘置しておくことを提案したのですが、ルメイはそのような運用は戦いの原則、特に攻勢の原則に反しているという理由で退けました(Ibid.: 46)。しかし、ブローディは「無制限の破壊以外に、戦争によって何をどのように達成すべきかを決定する」ことの重要性を強調しました(Ibid.: 48)。

ヴァンデンバークがブローディの仕事ぶりを評価していましたが、空軍の関係者からは部外者としてブローディを好ましく思っていなかったと著者は推察しています。ノースタッドがヨーロッパへ転勤になったことで、国防総省におけるブローディの立場は悪化し、1951年5月末には当初の予定より速くコンサルティング契約が打ち切られました(Ibid.: 49)。

ブローディはいったんイェール大学に戻りますが、核戦略に対する関心が途絶えることはなく、アメリカ空軍から調査研究を請け負っていたシンクタンクのランド研究所に入所します。この研究拠点はやがてアメリカの核戦略の研究拠点として発達することになりますが、著者はその経緯についても詳細に辿っています。

この記事では第1章から第3章までの内容に基づいてブローディの仕事を中心に紹介しましたが、登場する人物はブローディに限りません。アルバート・ウォルステッター、トマス・シェリング、ヘンリー・キッシンジャー、アンドリュー・マーシャルなど、冷戦期のアメリカの核戦略に関わった人々の動きが追跡され、彼らが混沌とした核兵器を論理によって制御可能なものにしようとしてきたことを明らかにしています。

ただし、著者はそれが実際に制御可能になったものと見なしているわけではなく、全体を通して批判的なトーンが維持されています。読み終わったとき、核戦略の理論が見せかけの安心感を与えるにすぎず、それに頼り切ることは危険ではないのかという警戒感が残る著作だと思います。そして、そのような出来合いの理論に対して一定の警戒感を持っておくことは基本的に健全なことだと思われます。

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