50m走じゃないから人生って
わたしが『仕事が忙しかった』などと言うときは大抵言い訳である。
もちろん嘘偽りはないのだけれど "忙しかった" などとわざわざ前置かないと話を始められない場合、何かができなかったことへの弁明なのだ。
というわけで、お仕事が忙しかった。
人間、忙しく過ごしている時は疾走感に満ち溢れている。そして同時に躓きやすく、転ぶと結構痛い。小さいミスが大きく見えたり結果が伴わなかった場合ダメージを受けたりする。
かつてのわたしも『この半期頑張って昇格しちゃうぞー!』などと意気込んで全力疾走したものの結果思うように昇格出来ず、当てつけのように負のオーラを纏い3ヶ月ほどじめじめと過ごした経験がある。周りの大人からするとさぞ面白く面倒な光景であろうが、本人からすると『ヒロインことわたし、今作は悲劇への出演。』といった感じである。
お察しの通り元来わたしは本当にデキた人間でないため、上手くいっている時にはまったくもって己を省みない。わたしが唯一過去を振り返りしっかり反省するのは、めちゃくちゃに全力疾走した結果盛大に転んだときだけである。
そしてそれを何回も繰り返すうちに「もしかして自分の思い通りにいかないから人って成長するんじゃないの?」とか「自分の失敗ほど客観的に処理したほうがいいなぁ」といったようなことを学んでゆく。
つまり、わたしにとってはこれがいちばん合理的な成長方法だった。本気で走らないと派手に転べないし、派手に転ばないと痛みを伴わない。そして痛みを伴うからこそ失敗と反省をいつまでも忘れずにいられる。そういうことを何度も繰り返して少しずつ成長してきた。
ちなみに賢い友人にこの話をしたら『それはバカの学習法だ』という感想が戻ってきたのだけれど、たぶん空耳だと思う。
最近後輩たちから "躓くことで取り返しがつかない気がして焦る" という話を聞いてかつての自分を思い返した。もちろんそういった感情には痛いほど共感できる。これは仕事にも恋愛にも言えるけれど転ぶのが怖いからこそ前のめりに走れなくなったりするものだ。
だけれど、たとえ躓いて転倒したとしてもさらにその先にいつか痛みを忘れて繰り返してしまったとしても、自分がそれを糧にしてまた歩きだしさえすれば手遅れなんてことは早々ない。
ときに『転んだー痛いー』と大きな声を出して周囲に助けを求めたり、この世の終わりの如く落ち込んだりしながらでも、いつか立て直す気があれば何回だってやり直せると思う。
人生が50m走ならば、一回転んでる間に周囲が全員ゴールしてしまって取り返しがつかないなんてこともあるかもしれない。生まれもった能力で勝敗が大きく左右されることだってあるだろう。
でも幸いなことに、人生って50m走じゃないのだ。勝ち負けでもなければ瞬間勝負でもない。ターニングポイントなんて、きっと死ぬときに決まるものだ。
だからこそ "いまを精一杯に生きている自分" を大いに肯定すればよいと思う。
派手に転べるのだって、キラキラした立派な才能である。
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