わたしの本気はわたしだけのもの
最近になって改めて長生きしたいなと思うようになった。
少し前までのわたしはたとえば50年後のことなんて考えたことがなかったし『明日死んでも後悔がないやい!』といった生き方がかっこいいと思っていたけれど、いつのまにやら考えが変わったのだ。
いつだかわたしを会社の創業メンバーとして誘ってくれた人がいた。今いる会社で頑張りたいのだと伝えると、社長から「あなたはいつも誰かの言葉で話している」「あなたは優秀だけどホンモノじゃない」と言われた。当時のわたしは烏滸がましくも、せっかくいただいたお誘いを断ったことに対して嫌な思いをさせてしまったかなと案じていたし、同時に図星だなぁなんてもらった言葉をゆっくり咀嚼していた。
『確かにそうかもしれないですね...指摘してくださってありがとうございます』とわたしが言うと "そういうところがつまらない" と笑われた。
わたしとすれば社交辞令で御礼を述べたわけでももちろん嫌味でもなかったのだけれど、もしかすると『いやそんなこと言われる筋合いないですけどね』と感情的になることを望まれていたのかもしれない。
会話の温度って大事だ。コミュニケーションの熱量で相手の本気度を測ったり、自分と相手で会話の温度が異なると不安になったりする。
そういったことを理解していたから、20代の前半なんかは会話の熱量を相手に合わせていたと思う。会話している相手の熱量やその場の空気に応じて自分自身も熱量を帯びるような、そしてそういう姿勢が相手の本気に対する礼儀であるような気がしていたのだ。
それがいつからか『わたしの本気はわたしだけのものだ』と思うようになった。
人も仕事もそれ以外も、わたしが本気になれるものや感情が動いたり心の中がときめきでいっぱいになるようなものは限られている。誰かからそれを求められたり逆に誰かに求めたりしても、結局のところわたし自身の本気が向かう場所はわたしが決めるのだ。
なにしろ今のわたしはこれでもかというくらい好きなものに囲まれて生きている。そして好きなことものを少しでもより良くするために本気になれるような人生なのだ。だから1日でも長くわたしとして生きていたいと思えるようになってきたし、同時に日々小さく継続的に変化したいと思うようになった。つまり人生において何回脱皮できるか試してみたくなったのである。
だからわたしは明日が10年後が70年後が楽しみで仕方がない。これから先いつもなにかにちょっと本気な、かっこいい大人であり続けたいと思うのだ。
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