【映画解釈/考察】レオス・カラックス監督『ホーリー・モーターズ』(2012)「"眼差し"と"演じる"ことから逃れられない人間たちを、"映画館"に運ぶホーリー・モーターズ(レオス・カラックス監督)」
『ホーリー・モーターズ』(2012) レオス・カラックス監督
『ミスター・ロンリー』(2007) ハーモニー・コリン監督
『TOKYO!』(2008) オムニバス映画
『アネット』(2021) レオス・カラックス監督
『ホーリー・モーターズ』の寓話性と疑問点の整理
『ホーリー・モーターズ』は、2012 年(日本では 2013 年)に、レオス・カラックス監督の長編映画としては『ポーラ X』(1999)以来 13 年ぶりに劇場公開された作品です。公開前から、首を長くして、かなり楽しみに待っていた映画でしたが、期待通りというかそれ以上の満足感を味わえた作品でした。
それは、フランス・パリのやフランス映画の魅力を不断に散りばめているだけではなく、レオス・カラックス監督自身の映画哲学を織り混ぜた情熱的な映像美が存分に伝わってくる映画だったからです。
そして、何よりも個人的に、熱狂した理由は、抽象的で寓話的な映画のストーリーです。
レオス・カラックスがこの映画で表現したかったことを、特に、以下の点に注目して考察をしたいと思います。
①レオス・カラックス監督自身が、眠りから覚めた後に行き当たる映画館で、映画を無表情で眺める大人たちと窓から外を眺めている少女は何を意味しているのか。
②オスカーは、何のために、誰に向けて演じているのか。また、オスカーは、何に苦しんでいるのか。
③ラストで、オスカーがチンパンジーの親子の家に帰るのは、なぜか。また、エディット・スコブが演じるセリーヌが降車した後、仮面を着けて、去っていくのはなぜか。そもそも、ホーリー・モーターズとは何か。
また、、『ポーラ X』から、『ホーリー・モーターズ』の間に、レオス・カラックス監督か携わった2つの映画、ハーモニー・コリン監督の『ミスター・ロンリー』とオムニバス映画の『TOKYO!』についても、『ホーリー・モーターズ』に影響を与えていると思われるため、関連して考察をしたいと思います。
〈見るもの〉・〈見られるもの〉の反転
映画『ホーリー・モーターズ』は、監督(レオス・カラックス)自らが登場し、空港が見える部屋で、夜中目覚めるところから始まります。そして、仕切りのような壁を破って、多人たちが静かに座っている劇場に出ます。そこでは、無表情で虚ろな目をしている観客が、映像をひたすら流し続けています。
そして、場面が切り替わり、ドニ・ラヴァン演じるオスカーが登場し、そこからリムジンに乗ってパリの街を駆け巡りながら 11 の役(インターミッションを含む)を次々に演じていきます。
まず気になるのは、この切り替わりの場面です。それは、オスカーが演じる銀行家の娘らしい人物(レオス・カラックスの娘)が、丸い窓から外を眺めているのを、じっくりと映し出している場面か挿入されている点です。
劇場の観客は、"見るもの"、そして、オスカーは、名前からも分かる通り、"見られるもの"="演じるもの"であり、反転する構図になっています。
そして、その間に、挟まれているのが、窓から外を眺める少女です。少女は、"見るもの"であると同時に、"見られるもの"でもある存在です。
デジタル監視社会の視点 と見えない"大文字の他者"への抵抗
そして、この映画の最大の謎が、オスカーは、何のために、何に向けて演じているのかという疑問です。
その核心に近づく、重要な発言が、ミシェル・ピコリ演じるオスカーの上司が、リムジンの中で、オスカーにした質問です。
「最近の君に不満を持っている者もいるが、なぜ君は演じ続けるのか」
それに対して、「"行動の美"を表現するためだ」とオスカーは答えます。
このあとに続く会話の中で、最近の若者たちは、カメラを意識しないで、強盗をするという指摘がされています。
少し、違和感を感じる発言です。むしろ、最近の方が、監視カメラが多くついているので、気にする必要があります。
ここでもう一つ 、カメラの視線について気になる点があります。
それは、オスカーが、撮影カメラの位置を気にしていないことです。しかも、撮影の始まりと終わりの合図が全くありません。
一つの仮定として、これらは、デジタル時代の監視社会を想起させます。
これは、映画の最後のシーンで、人間がいなくなった後に、リムジン達が話している内容ともリンクしています。
デジタル化によって、車という物質や移動そのものが不要になる、というような発言をしています。
これらの解釈から、さらに踏み込むと、デジタルな現代社会において、人間の行動が、無意識のうちに誘導されていることに対する、オスカー=レオス・カラックス監督の抵抗が表現されているのではないかという仮説を立てます。
そう考えると、先述の若者たちは、監視カメラを気にせず、無意識のうちに行動を誘導されていることになります。
また、観客が無意識に行動を誘導されているとすると、オスカーの行動(抵抗)の意味を理解できずに、疑問を持つ人が増えることが想像できます。
まさに、 冒頭の映画館の無表情な観客たちは、無意識に誘導されている人々を表しています。
そもそも、映画自体が、体制のプロパガンダとして利用される危険性が、ヴァルター・ベンヤミン『複製時代の芸術』などをはじめ、多く指摘されてきました。
オスカーは、何に抵抗しているのかと言えば、社会の人々を誘導する存在に対してです。
デジタル社会においては、デジタルメディアを媒介して、人々の行動が誘導されているわけですが、そもそも、誘導しているもの(主体)の存在が見えません。
銀行家のような分かりやすい存在を標的にしても十分ではない時代だと言えます。
オスカーの疲労の原因がそこにあります。観客="見るもの"の共感が十分に得られないのです。
見えない存在によって創り出された幻影によって支配されているため、オスカーは、演技に苦悩しているように見えます。
しかし、ジャック・ラカンの言葉で言う、「大文字の他者」は、確実に存在します。
つまり、自己の行動を支配する理想像としての視線は、デジタルメディアの影響を受けていても、確実存在しています。
そして、私たち一人一人が、それに対するギャップに悩んでいる現実は変わらずに、存在しており、それに対しては、共感できる可能性が残されています。
また、 このことは、レオス・カラックス監督の映画に対する葛藤に直結していることは、容易に想像できます。
そこで、ここからは、この仮説をもとにして、オスカーが演じたエピソードを、役別(チャプターごと)に、細かく見ていきたいと思います。
そこで、一つ押さえておきたいのが、オスカー演じるドニ・ラヴァンは、レオス・カラックス作品のほとんどの作品で主演をつとめており、レオス・カラックスの分身的存在としての可能性を考慮するしつようがあります。
つまり、それは、オスカーが演じるそれぞれのエピソードが、レオス・カラックス監督の作品や私生活に関連している可能性があるということです。
オスカーが演じる"世人"を要求する"大文字の他者"への葛藤
ハイデガーの言葉で言えば、私たちは、社会で生きていくために、私の存在とは異なる"世人"を演じています。
先述のラカンの言う"大文字の他者"は、まさに、私たちに、"世人"を演じさせるための視線(監視カメラ)として、存在しています。
オスカー(または、レオス・カラックス監督)は、その"大文字の他者"に対する葛藤を演じているのでは、ないかと言う仮説をもとに、11のチャプターを、読み解いていきたいと思います。
Chapter1 銀行の重役
最初に演じているのは、窓から外を眺める少女が住むモダニズム建築の豪邸に住む銀行の重役で、象徴界(社会)における支配層を表象したものだと考えられます。つまり、"大文字の他者"を支配する存在です。
Chapter2 物乞いをする老婆
一転して社会の異端者である物乞いをする老婆を演じています。ポンヌフ橋で足を引きずりながら物乞いをする様子は、レオス・カラックス監督の『ポンヌフの恋人』を連想させます。
オスカーは、敢えて、人混みの中を歩いて、人々の動揺(嫌悪感や不安)を与えているように見えます。
このオスカーの行動が、"世人"であることを要求する"大文字の他者"への抵抗を演じていると読み取ることができます。
Chapter3 モーションキャプチャーの男
VFX のモーションキャプチャーを担当するオスカーは、最初は秩序だった動きをしていますが、同じモーションキャプチャーの女性が現れると、欲動(リピドー)的な動きをするようになります。
これも、"世人"であることを要求する"大文字の他者"への抵抗を演じていると読み取ることができます。
※Chapter4 怪人メルドは、後述。
Chapter5 娘の父親
オスカーは、パーティに参加した娘を車で迎えに行く父親の役を、演じています。
この車の中で、娘はパーティで居場所がなく友達を置いてきた事実を隠して会話をしています。
しかし、オスカーにその事実がばれてしまい、オスカーは、偽りの自分を演じていた娘を責めて、家の近くで、娘を車から降ろします。
この娘の偽りの演技こそが、人が社会で傷つかないための"世人"を演じることであり、ありのままの存在ではいられない現実を表しています。
したがって、このオスカーの苛立ちも、"世人"であることを要求する"大文字の他者"への葛藤や抵抗を表したものと読み取ることができます。
付け加えると、この娘を演じているのが、銀行家の娘と同じレオス・カラックス監督の実の娘だそうで、一連のエピソードが、レオス・カラックス監督自身と関連性があることを匂わせています。
Chapter6 殺し屋①
インターミッションの演奏のあとにオスカーが演じているのが、殺し屋のギャングです。ターゲットが働くアジトに赴き、ミッションを実行しますが、自分が殺害されたように偽装をしている最中に、ターゲットの返り討ちに遇います。
オスカーが、一人二役を演じているわけですが、これまでのチャプターと異なり、新たな深化した視点が追加されています。
それは、現在のオスカーと過去のオスカーとの葛藤です。つまり、同一人物であっても、"演じる"対象である"大文字の他者"が、時の経過とともに変化するものであり、現在と過去の自己の葛藤を表現したものだと考えられるのです。
Chapter7 殺し屋②
そうした混乱したオスカーのストレスが、最高潮に達します。
オスカーは、運転手のセリーヌとの会話の途中に突発的車から降り、最初に演じていた銀行の重役(こちらもオスカー)を射殺した後、護衛の者に撃たれます。
銀行の重役は、最初の方で述べた通り、"世人"であることを強要する"大文字の他者"の支配者の表象です。
このオスカーの行動は、まさに、"世人"であることを要求する"大文字の他者"への抵抗を演じていると読み取ることができます。
そして、このチャプターで大事なことは、その抵抗も虚しく、"世人"であることを要求する"大文字の他者"によって鎮圧されてしまったことを表していることです。
『TOKYO!』の怪人メルドと"大文字の他者"への抵抗
オスカーが演じる10のチャプターで、4番目に登場するのが、怪人メルドです。怪人メルドは、オムニバス映画『TOKYO!』にも出てくる、フランス語で糞を意味する、マンホールの下を行き来する怪人です。『ホーリー・モーターズ』と同じく、ドニ・ラヴァンが演じています。
そのオムニバス映画『TOKYO!』は、『エターナル・シャンシャイン』のミシェル・ゴンドリー監督と『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督とそしてレオス・カラックス監督がそれぞれ担当した 3 つの短編から成り立っています。
そして、レオス・カラックス監督が担当したのが、怪人メルドのパートです。
話の内容を簡単に要約すると、怪人メルドが、東京の地下に残っていった手榴弾を使って、池袋の街で、爆破テロを起こし、裁判にかけられて死刑になるが、生き返った上に忽然と消えてしまう、終始、劇中の人々と同じように、見る側を翻弄させる奇抜なストーリーです。
また、『ホーリー・モーターズ』の撮影監督であるカロリーヌ・シャンプティエが『TOKYO!』でも撮影監督を担当しています。
因みに、カロリーヌ・シャンプティエは、ゴダール作品やジャック・ドワイヨン監督の『ポネット』などの女性撮影監督として有名で、レオス・カラックス監督も出演していた『ゴダールのリア王』でも撮影監督を務めています。
さて、話を、本題に戻します。
怪人メルドとは、何を表象した存在なのかを考えます。
『TOKYO!』において、怪人メルドは、終始、"見るもの"を混乱させる存在です。
なぜなら、怪人メルドが、象徴界(社会)の言葉(概念)が全く通じない存在であるからです。
また、なぜ、『TOKYO!』というタイトルのオムニバス映画で、怪人メルドの作品をわざわざ撮ったのかが気になります。
その理由の一つとして、世界的に見て、日本人が、"世人"であることを要求する"大文字の他者"、つまり社会の"眼"を、気にして行動する民族であるからだと考えられます。
そして、『ホーリー・モーターズ』でも、"世人"であることを要求する"大文字の他者"に抵抗する存在として再登場します。
『ホーリー・モーターズ』の場面で、気になる点は、誘拐されるモデルの女性がほとんど抵抗しない点です。その上、メルドとともに、地下で安らぎの一時を過ごします。
これは、モデルの女性が、"大文字の他者"の視線やや"他者のまなざし"による、苦痛や疲労から、解放されていることを意味していると考えられます。
"大文字の他者"の視線に割り込む"他者の眼差し"によるオスカーの葛藤(『ポンヌフの恋人』から『アネット』へ)
Chapter8 ヴォーガン氏
次にオスカーが演じているのが、姪と最期の会話をするヴォーガン氏です。この姪は、ヴォーガン氏から譲り受けた資産を金目当てで結婚した夫に奪われてしまった悲劇の人という設定です。
そして、演技が終わったあと、時間が来たため、オスカーはその場を去ろうとしますが、名残惜しそうにする姪役の女と「また会いたいね」と会話をします。
ここで、また、新たな要素が加わっています。それは、"大文字の他者"の視線に、"他者の眼差し"が割り込んでくることによる葛藤です。それは、サルトルのいう対他存在による葛藤とも言えます。
二人は、そのことに共感し合っているのではないかと思われます。
そのオスカー(レオス・カラックス監督)の葛藤は、次のチャプターでさらに明らかになりますが、"他者の眼差し"の割り込みについては、次のChapterで詳しく説明をします。
Chapter9『ポンヌフの恋人』のアレックス役を演じた俳優
次に、『ポンヌフの恋人』のアレックス役を演じた俳優として、ミシェル役を演じた女優ジーンと再会する場面(チャプター)が登場します。
オスカーを演じているドニ・ラヴァンが、『ポンヌフの恋人』でも、実際にアレックス役を演じていますが、ミシェル役を、実際に演じていた、ジュリエット・ビノシュではなく、歌手のカイリ・ミノーグがジーン役を演じています。
ジュリエット・ビノシュは、『ポンヌフの恋人』の撮影を開始した頃は、レオス・カラックスと恋人関係にあり、『ポンヌフの恋人』の撮影中に破局したのは有名な話です。また、『ポンヌフの恋人』のラストを巡って、ジュリエット・ビノシュと揉めたことも、完成が大幅に遅れた原因の一つと言われています。
二人が愛し合っているときには、それぞれの"大文字の他者"または、"対自存在"が共存できるかのような二人の物語を創り上げますが、破局するときには、その物語は崩壊し、それぞれの"大文字の他者"または、"対自存在"は相容れないものになっていると考えられます。
このChapterで、特に気になるジーンの発言が2つあります。二人が別れる場面で、「私たちだった私たちではない」ことに言及して二人が別れる場面です。そして、さらに気になるのが、「私たちには子どもがいた」という発言です。
『ホーリー・モーターズ』の次に公開された最新作の『アネット』は、このChapterを発展させた内容になっています。
まさに、『アネット』では、二人の物語に立ちはだかる"他者の眼差し"によって、崩壊していく話です。しかも、"他者の眼差し"は、多くの人の眼(世間)は、もちろんですが、興味深いのは、二人の間に生まれた赤ん坊の新たな"眼差し"によって、二人の物語の歯車が狂い出します。
これは、"他者の眼差し"によって、私たちそれぞれの"大文字の他者"が、常に脅かされていることを意味しています。
そして、それは、私たちの"大文字の他者"が、"他者の眼差し"によって、常に変化していることをも意味します。
つまり、今の私のままではいられないことになります。これは、Chapter6の同じ顔の殺し屋の入れ替わりの場面の考察と一致します。
このChapter9と『アネット』の話は、レオス・カラックスの妻であった『ポーラ X』のカテリーナ・ゴルベワのことが連想される話となっています。
オスカーは、ジーンの相手役の男と、"眼"を合わせようとはしませんでしたが、ジーンは、相手役の男と "眼"を合わせることで、屋上から飛び降ります。
また、この場面は、で詳しく言及する『ミスター・ロンリー』のマリリンが自殺することとも重なります。
なお、この場面の撮影が行われたのは、ポンヌフ橋の傍に建つ旧サマリテーヌ百貨店です。この撮影当時は、老朽化のため閉館中(廃墟状態)で、今年、モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトングループによってショッピングセンターとホテルの複合施設として再オープンしています。
『ミスター・ロンリー』と"演じる"ことと"他者の眼差し"
この"他者の眼差し"をテーマにしたレオス・カラックス監督に関連する映画がハーモニー・コリン監督の『ミスター・ロンリー』です。
この『ミスター・ロンリー』で、レオス・カラックス監督は、ドニ・ラヴァンと共に、役者として出演しています。
レオス・カラックス監督の役は、マイケル・ジャクソンの物まねをする主人公に仕事を紹介する友人の役で、出演時間は短いものの、映画の始めの方と終わりに出てきて、主人公に対して、重要な質問を投げかける役割を担っています。
そもそも、ハーモニー・コリン監督とレオス・カラックス監督には、深い共通点があります。
それは、初監督作品である『ボーイ・ミーツ・ガール』と『ガンモ』の映像監督が、どちらとも、ジャン=イブ・エスコフィエである点です。
ジャン=イブ・エスコフィエはレオス・カラックス監督とともに『ボーイ・ミーツ・ガール』『汚れた血』『ポンヌフの恋人』の三部作を撮った後、渡米し、ガスヴァン・サント監督の『グット・ウィル・ハンティング』や『ガンモ』の撮影監督をつとめました。
さて、本題に戻ると、『ミスター・ロンリー』は、『ホーリー・モーターズ』と、"演じる"(まねる)ことと"他者の眼差し"ついての共通点があります。
このことからも、『ミスター・ロンリー』は、『ホーリー・モーターズ』のストーリーに、一定の影響を与えている作品だと考えられることから、『ミスター・ロンリー』について詳しく見ていきたいと思います。
『ミスター・ロンリー』は、冒頭に印象的なボビー・ヴィントンの『ミスター・ロンリー』が流れる場面から始まる作品です。
この作品のあらすじを簡単に説明すると、ディエゴ・ルナが演じる路上でマイケル・ジャクソンの物まねをするパフォマーが、パリでサマンサ・モートン演じるマリリン・モンローのなりきり芸人に遭遇し、同じような人たちが共同生活するスコットランドの古城に移り住むというものです。
この映画の主題は、この映画のラストに集約されています。
まず、リーダーでドニ・ラヴァン演じるチャップリンの物まね芸人の妻でもあったマリリンが自殺してしまうことです。
そして、そのことで、マイケルが、パリに戻り、マイケル・ジャクソンのパフォマーを辞めて、素顔の彼になり、街中に消えていきます。
まず、第一に重要な点として、マリリンが自殺したした理由が、問題になります。
結論から言うと、 "他者の眼差し"によって、彼女の住む世界(象徴界)が、崩れそうになってしまったからです。
マリリンが、なぜマリリン・モンロー"演じる"のかというと、マリリン・モンローを"演じる"ことによって、彼女の居場所を創り上げるためです。
彼女にとっての"大文字の他者"は、神話化したマリリン・モンローであり、"まねる"ことで、コミュニティー(象徴界)における彼女の居場所を確保しようとしたわけです。
つまり、私たちの多くが"世人"を演じる理由と同じく、孤独(ロンリー)を逃れるために、マリリンは、"演じ”ているのです。
しかし、逃れることのできない"他者の眼差し"がまりを襲います。
夫であるチャップリン(ドニ・ラヴァン)を演じる夫の不倫では、夫婦関係を崩す、"不倫相手の眼差し"が割り込み、自殺する直前には、マリリンたちのコミュニティが偽物であるという"観客の眼差し"が介入しています。
"他者の眼差し"によって、彼女の世界(象徴界)が崩壊しそうになり、それ(幸せ)を守るために、彼女は、自殺したのだと考えられます。
これは、作品の中で出てくる、彼女たちが信じる"大文字の他者"(象徴界)を守るために、飛行機から飛び降りるシスターたちと同様の行為と言えます。
そして、さらに重要なのが、主人公のマイケル"演じる"(まねる)ことを最終的に止める点です。
これは、現存在(自分)と異なる"大文字"の他者"を"演じた(真似た)"としても、偽りの世界(象徴界)を維持することは不可能であり、"孤独"(ロンリー)な存在から逃れることができないというメッセージが込められていると考えられます。
興味深いことに、ハーモニー・コリン監督の最新作『ビーチ・バム』では、主人公のムーンドックは、放蕩詩人を、何があっても、"演じ"続けることを選択しています。
もう一つ押さえて置きたいのが、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズの元パートナーでもあったアニタ・パレンバーグ演じるエリザベス女王のインパーソネーターが"まねる(演じる)"ことは人間の本質であることを忘れないでほしいと演説していた場面です。
これは、繰り返し述べているように、私たちの多くが、コミュニティーで生きていくために、"世人"を演じているわけで、マリリンたちとほとんど差がないことを意味しています。
そして、ここから、『ホーリー・モーターズ』のラストの場面について見ていきたいと思います。
見えない"大文字の他者"に完全支配され、“他者の眼差し”が消えたデジタル仮想空間へ
Chapter10 家に帰る男
オスカーが登場する最後の舞台は、同じ形をした白い家が整然と並ぶ住宅地です。そこは、Chapter9の最後に取り乱していたオスカーが、今日のスケジュールをすべて終えて、セリーヌと挨拶を終えて、帰宅した場所です。そこで、オスカーは、少し躊躇った後に、家の中に入っていきます。これは、何を意味しているのか興味を誘われる場面です。
そして、さらに、窓を通して見えたのは、チンパンジーの妻と子供の出迎えられたオスカーです。そして、再び、2階の窓からチンパンジーの家族と幸せそうに過ごす様子が映し出されます。
この不自然なシーンが何を表しているのかを、否応なしに、考えたくなります。
まず、整然と並ぶ白い家は、象徴界の表象と見ることができます。
"他者の眼差し"によって、疲弊したオスカーは、“大文字の他者”に対する抵抗を止め、チンパンジーの家族を“従順”に受け入れています。
つまり、象徴界が現実と異なっていることを認識しつつも、"大文字の他者"に向けて"演じる"ことへの抵抗を止め、思考を停止し、"演じる"ことを運命として受け入れている状態を表してしるものと考えられます。
さらに、深読みをすれば、『ゼロの未来』や『コングレス未来学会議』のように、見えない"大文字の他者"に完全支配された、“他者の眼差し”を気にする必要のないメタバース(仮想現実)の世界を受け入れていると解釈できるかもしれません。
これは、ラストの車たちの会話や、先述の強盗をする若者の話とも、一致しています。
『顔のない眼』のオマージュと"ホーリー・モーターズ"
そして、この映画の最後の舞台が、ホーリー・モーターズの車庫です。この場面で、重要な意味をもつのが、運転手のセリーヌが仮面をつけ、リムジンから出てくるシーンです。
このシーンは、セリーヌ役のエディット・スコブが自ら演じていることから明らかであるように、ジョルジュ・フランジュ監督の『顔のない眼』のオマージュになっています。
この『顔のない眼』を簡単に説明すると、交通事故で顔に大火傷を負った娘の医師である父親が、繰り返し街のほかの娘を襲い、皮膚を剥ぎ、自分の娘に移植するという怪奇映画です。
そして、セリーヌの仮面をつける行為と直接関連していると思われるのが、映画の最後の場面で、娘が父親たちを殺し、仮面をつけて家を出ていくシーンです。この娘を演じていたのが、運転手セリーヌを演じているエディット・スコブです。
この『顔のない眼』のオマージュのシーンは、“ありのままの自分”諦め、"演じる"こと=仮面をつけて生きていくことという逃れられない宿命を受け入れることを表していると考えられます。また、一方で、その娘は、森の方に去っていくことから、“他者の眼差し”の感じない、現実(社会)から隔離された閉じた世界で生きていくことを選択したことと捉えることができます。
これは、オスカーの最後の場面とも一致します。
そして、、人間がいなくなった消灯後に、リムジンたちが会話をするシーンでこの映画が終わっています。
そこで、題名にもなっている"ホーリー・モーターズ"とは何を運んでいるのかということになります。一つの仮定として、これまで述べてきたことから、"演じる"や“他者の眼差し”から逃れられない宿命を背負った人々の魂を運んでいると考えられます。
そして、"ホーリー・モーターズ"は、最終的にそれらをどこに運んでいるのかを、想像してすると、冒頭にあった映画館に思いが至ります。
そして、"ホーリー・モーターズ"自身は、映画監督としてのレオス・カラックス監督を表していると思われます。
最後の場面で、車庫での車たちの会話は、レオス・カラックス監督自身が信じていた映画哲学への不安を吐露していると受け取れます。
デジタル社会において、実際の人間の動きや表情を有りの儘に映し出す映画は、本当に必要とされているのかという葛藤が、この作品を成立させています。
レオス・カラックス監督の映画に対する危機感と哲学(映画と人間の宿命との親和性)
しかし、この映画からは、そのことに対する諦めは、感じられません。むしろ、それらに対抗し、最後まで自分の映画哲学を貫徹しようという決意を感じさせる作品になっています。
それは、映画の黎明期の映像や数々の映画へのオマージュの挿入、そして、セリーヌの仮面での退場からも感じ取ることができます。
劇場からオスカー("ホーリー・モーターズ")に切り替わる間に挿入された、窓から外を眺める少女が、映画と人間の宿命との親和性を端的に表しています。
先述の通り、私たちは、"大文字の他者"や"他者の眼差し"を常に感じ、常に"演じる"ことを強制された存在です。そして、"演じる"ためには、"まねる"ことが必要であり、そのためには、"見る"必要があります。
映画においても、"演じる"ものは、見えない"観客"の視線を意識して、なおかつ"観客"向けて"演じ"ています。そして、観客は、その"演じる"ものを、"見て"います。
そして、その"観客"も、常に見えない視線に向けて、"演じる"存在です。まさに、窓の外を眺める"少女"と同様に、"見る"存在であると同時に"見られる"存在と言えます。
"演じる"人間=俳優を撮影することは、"演じる"ことや"眼差し"から逃れられない人間の宿命を映し出すこと同義であることを『ホーリー・モーターズ』を通してレオス・カラックス監督が、実証する試みではなかったのかと思われるのです。