【コラム8】現実への究極の対峙 〜瞑想法〜 (後半)
(前半より続き)
瞑想によって自分の本音と向き合うことで、いつの頃からか芽生え、心の奥深くにあった空虚感や矛盾、飽くなき欲求への果てることのない渇望感は、独立時代の自分に、現象として見事に顕在化されていった。
願望実現のために瞑想をしたはずが、残念ながら、表面的な私の願望はどうしても叶えることが出来なかった。
しかし私は、当時の目先の「願望」を達成できなかったにも関わらず、その後の私の人生において、今現在の自分にとっても、「瞑想」は欠かせないものとなった。
それは多分、私の最も深い本音が、表面的な願望を達成することよりも、「本当の自分」に目覚めることを強く求めており、その「本当の願望」が叶えられた結果ではなかっただろうか。
そして、「本当の自分」に目覚める方法として、瞑想は有効的な手段の一つだということを理解していたからではないかと思う。
もしも私が、プラス思考で徹底的に強固になったフタを大事に抱えたまま、自己探究を続けていたら、今でも迷いの中に身を置き、自分探しの終わりなき旅を続けていたかもしれない。
そういう意味では、あの瞑想法によって(時間差はあったが)私の最も深い願望は、見事に実現された、と言っても間違いではないのかも知れない。
1990年代から「心の時代」という言葉が流行し始め、様々なテレビ番組で特集が組まれる程、神秘の世界や精神世界、そして広く心の世界全般が、かなり一般的に語られる様になった。
しかし、今でも物質世界に重きを置く主義の人々も沢山いることも事実で、「心」と言っただけで、=「宗教」=「怪しい」といった、偏見の方程式を持ってしまうような人も、まだまだ世の中にはいる。
そして、そのような人たちから見ると、「心の世界」に目を向けることを、まるで現実逃避のように言われてしまうこともある。
だが、真実の観点から言うと、「現実」とはすなわち「心」が現れただけの鏡のようなもので、現実を変化させたければ、自分の「心」に手をつけるしかない。
鏡に映った自分の顔がムっとしていたら、「何でこの鏡は笑わないんだ」とは思わないだろう。
自分が笑えば、鏡の中の自分も自然と笑顔になる。
しかし普段、人は「現実」が、自分の「心」の鏡であることが理解できないから、鏡である現実を必死に変えようとあれこれ試みたり、変わらない現実に悩み苦しむ。
本当は、「心」が変わることによって、現象という鏡に映った「現実」は変わっていくのだ。
つまり、「心」に手をつける「自分探しの旅」をするということは、現実逃避どころか、「現実」への究極の対峙なのだろうと私は思う。
私が「本当の自分に出逢いたい」「悟りたい」と思った理由は、いつの時代も自分の心の中にあった「悩み」「迷い」「不安」から解放され、そういう迷いのある自分を突き抜けた次元に行きたい、と思ったからだ。
コンプレックスやお金の悩みに振り回される自分に嫌気がさし、その次元に到達出来れば、そもそも私を悩ます問題そのものに、私の心が囚われることも無くなるのだろうな、と、ただ漫然と思っていた。
そういう「悩み」や「迷い」から解放されたいという思いから、「本当の自分」を求める気持ちは、ある意味、現実逃避と言えるかもしれない。
しかし逆に、「悩み」や「迷い」が無ければ、「本当の自分に出逢いたい」という気持ちが生まれることも極めて稀だ。
ここには心の世界のパラドックスがある。
つまり、「悩み」や「迷い」は、目覚めの邪魔などではなく、目覚めの協力者でもあるのだ。
「悩み」や「迷い」から解放されたい気持ちが、本質的な自己探究に自分を誘い、真理を学ぶ道へと進ませる原動力になる。
同時に、私たちはもともと「本当の自分」「普遍意識」そのものであるのだが、その自覚が出来ないからこそ、悩みが生じる。
「本当の自分」は、もともと満たされた存在で、満たされた心が「満たされた状態」を引き寄せ、その人にとって必要な環境や縁が、自然と用意されていくのだが、
悩みに強烈にフォーカスし囚われることで、悩みから開放されにくい状況を、自ら引き寄せてしまうという逆説が生じる。
協力者であったはずの「悩み」が、己の目覚めを阻む要因にもなってしまう。
では、どうすれば良いのか。
それは、現実とそこに対峙している自分の心の動きを客観視し、そこに囚われず、その現実に対して善悪の判断を持ち込まないことだ。
そうやって、囚われから少しずつ解放され、「悩み」が自分を目覚めへ誘う協力者に見えた時、それこそが「普遍意識」からの視点と言える。
瞑想法は、そのような意識をもたらすための一つの手法だ。
現実から目を逸らすのではなく、現実を「正しい」視点(普遍意識の視点)から観ること、究極の「現実への対峙」のための手段なのだ。
独立時代、私を翻弄し続けたお金の問題は、我が身にそのような正しい視点をもたらすには、非常に難しい現実が私の目の前に展開していた。
まさに私は「現実」に翻弄され、心を見失いそうになっていた。
本音が露呈することで現実に翻弄される自分と、自我の崩壊によって「本当の自分」に少しずつ近づきつつあった私の姿がここに同時に存在していたこと、
そしてだからこそ、その先に導かれた「縁」があったことを、その渦中にいた時代に、果たして誰が見極めることが出来たであろうか。
少なくとも、当時の私自身には出来なかった。
この時代、「本当の自分」である普遍意識が、私に示そうとしていた真実が、私自身の目にもはっきり見えるようになるまで、私はもう少し、現実との究極の対峙である「自分探しの旅」を続けなくてはならない。
(本編へ続く)