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★我楽多だらけの製哲書(43)★~日々示される数値とデカルト~

私は数字やグラフが好きである。
好きとはいっても、それを駆使して高度な分析ができるというものではなく、単に数字を並べ、その数字と数字を比較し様々なグラフにして、そこから見えてくる関係性の中に何らかの法則などはないだろうかと思いをめぐらすのが好きという程度のものである。

シンガポールに住んでいたとき、ヘイズという煙害に関して大気汚染の程度を示す数値でPSIというものがあるのだが、その都度変化して示されるその数値を記録して、自分でグラフ化し、その推移を見て、その中にどんな関係性があるか考えたりしていた。

この数年間、世界で拡大し続ける新型コロナウイルスの情報は、ここまで多くの数値として日々発表されている。去年の今頃も一度この数値をグラフにしていたのだが、改めて数値をグラフにまとめてみることにした。

とりあえず2020年1月終わりから現在までの東京都における新規陽性者数の推移を日別でグラフにしてみた。これからも引き続き、この集まった数値を使って、色々な角度から分析を試みようと思っている。ただし、そこから見えてくる関係性や法則というものがどれだけの価値があるかというと、残念ながら大した価値はなく、自己満足のレベルであることは、分析を始める前から自覚はしている。

★2020年1月末から2021年1月末

★2021年1月末から2022年1月末

何らかの前提(命題)から出発し、そこから飛躍のない推論を展開し結論を導き出す方法は「演繹法」と呼ばれている。この演繹法の祖とされるが、フランスの数学者であり哲学者であるルネ・デカルトである。

この演繹法に基づけば、飛躍のない推論の展開によってたどりつく結論は間違いのないものとされる。私がこれから行おうと考えている分析も、数値を集めて、そこから見いだされる関係性を結論とするものなので外見上は演繹法のように思える。数値は固定的なものであり、5が他者の解釈によって3になることはなく、また5から50への変化は10倍であることを誰も疑うことはできない。

しかし演繹法の注意点は、推論を開始する前に存在している。いかに飛躍のない合理的な推論で結論を導き出したとしても、推論が始まる前提に誤りがあったならば、たどりついた結論は正しいものになりえないのである。厄介なのは、前提の不確かさを十分に問うことなく、延々と展開された推論の先に示された結論ばかりに関心が向かってしまい、その結論が真実だと疑わなくなってしまうことなのである。

だからこそ、演繹法の祖とされるデカルト自身がその真理探究の方法にとって最も大切なことを、彼の名言の中でも特に有名なものとして示している。
「我思う、故に我在り」

様々な不確かで疑わしい出来事を、積極的に疑うという方法的懐疑によって、その真偽を明らかにし、そのような方法的懐疑によっても疑いえないものが確実な前提となるのである。そしてあらゆるものを疑ったとしても、疑いえないものとして、「意識としての我」は確実に残るものであって、デカルトはこれを「哲学の第一原理」と捉えたのである。

では日々発表される数値はどうだろうか。あくまでも行政から発表された数値であって、それがどれだけ信頼できるもので、確かなものなのかは分からない。そのような不確かなものを盲目的に信じて、その数値の中に関係性や法則を見出し、得意げになっているようでは、俄か演繹論者にすぎないわけである。だから私はこの分析が真実や真理にたどり着くものは全くなりえないことを最初から自覚しているのである。

ただし、そのような活動は頭の体操にはなると思うので、これから分析をしてみようと思う。

#哲学   #デカルト   #われ思う故にわれあり
#方法的懐疑   #シンガポール   #ヘイズ
(以下は、昨年作成した曜日別のグラフや、シンガポール時代に作ったヘイズのグラフ)

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