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▼哲頭 ⇔ 綴美▲(8枚目とニーチェ)

(哲学を美で表現するとしたら?美を哲学で解釈するとしたら?そんな思いをコラムにしたくなった。自分の作品も含めた、哲学と美の関係を探究する試み。)

今日の1枚は、グイド・レーニの『酒を飲むディオニュソス』である。

私が授業で哲学の単元の導入だったり、理性について話したいシチュエーションだったりするとき、決まって提示するのは「ロゴス(理性)とパトス(情念)の関係性」である。

ロゴス(理性)は古代より、人間が高い価値を持ってきた能力である。そしてそのロゴス(理性)を備えられていることが理想的な人間像であると考えられてきた。ロゴス(理性)は整然・均整・調和など「抽象的かつ一般的な世界における『美』」として、論理・政治などだけでなく、音楽・数学・科学の中にあって、それらを司るメカニズムと考えることができる。

このような人間像はギリシア的な理性主義として、価値の高いものと捉えられ、西洋社会では長い間、優先的な項目として取り上げられてきた。しかし、このようなロゴス(理性)を優先してきたことが、近代ヨーロッパの退廃(デカダンス)の一要因となったと批判したのが、実存主義者のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェであった。

ニーチェは、ロゴス(理性)という原理が人間を叡智的な存在にしているわけだが、人間はそれのみで生きているわけではなく、パトス(情念)という本能的・動物的・自然的な原理と関わり合うことで、現実の人間は成り立っていると考えている。そしてロゴス(理性)が優位というわけではなく、パトス(情念)と対等な関係で両者が融合することによって、人間は理想的な状態になれるということもニーチェは述べている。

このようなロゴス(理性)とパトス(情念)の関係について論じているのが、『悲劇の誕生』という著作である。ニーチェはこの中で、「ディオニュソス的なもの」という表現を用いている。これがパトス(情念)という本能的・動物的・自然的な原理そのものである。

ニーチェは、2つの原理の調停をしつつも、本能的・動物的・自然的な原理の方に強く惹かれていたのではないだろうか。そして、その原理が持つ混沌としているが溢れんばかりのエネルギーの魅力の中に、「具体的かつ個別的な世界における『美』」を感じていたように、私は受け取っている。

それが、芸術や演劇の世界では如実に表れていて、ディオニュソスが酒や演劇などを司る神であることとも繋がってくる。

ディオニュソスを表現した絵画は数多ある。ただ私は今回紹介した「赤子のようなディオニュソス」が一番合っていると思っている。情念のおもむくままに、飲みたいものを飲み、もよおしたならば自然の摂理に逆らわず、またあらゆる束縛を取り去った裸で過ごしている姿が、「情念の権化」であると感じるからである。

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#ディオニュソス

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