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アンラーン💣リラーン📚ためらわん♫run54

⭐自分の可能性の足を引っ張っている真犯人は、限界だと思い込んでいる自分自身⭐️【記事累積:1625本目、連続投稿:678日目】
(これまでの虚栄を解きほぐす「unlearn」のため、頭の中を刷新する「relearn」を躊躇なく進めるための記録)

<探究対象…コラム、表現活動、自己分析、限界と可能性>

最近、これまでのコラムについて考察していますが、2016年3月からの累積が「1600」を超えていて、今後の管理を考えても、ナンバリングしておいた方がいいかなと思い、今後は累積本数と連続日数を記載していきます。

今日は109本目からの考察です。109本目からのコラムの積み重ねからは一体どのようなことが言えるでしょうか。【課題の設定】

108本目までは「日々の教養」というタイトルでしたが、109本目からは「我楽多だらけの製哲書」というタイトルに変更しました。ただコラムの基本構造は同じように、自分にとって関心が高い「思想・哲学」というものと、周囲で起こる「事象」との結びつけです。「我楽多」は、使い道・値打ちのない雑多な物の意味を示す「ガラクタ」の当て字であるとともに、漢文調に捉えれば「我、多クヲ楽シム」のように読むこともできそうなので、意味・読みともに今後も気楽に綴るコラムのタイトルにふさわしいと考えました。【情報の収集】

そして製鉄所(せいてつしょ)というものが鉄鉱石から鉄を取り出し、そこから鉄鋼製品を作り出す場であり、産業の発展に欠かせないものなので、それと同じように、周囲で起こる事象から或る種の思いを取り出し、そこから文字を通じて哲学的な問題提起を行う場であり、思考の発展に欠かせないものとして、「製哲書」としてみました。【情報の収集】

また109本目の投稿は2017年4月1日で、私のシンガポール第1期の始まりでもありました(記事内容は首里城でしたが)。結局、シンガポール第2期の2年間のコラムはあまり書けませんでしたが、それでも日常と先哲の思想との結びつけを地道に続け109本目から174本目までの65本のコラムを積み重ねました。【情報の収集】

65本のうち29本は、例えばラッセルやアラロフ、コトラーなど「現代」に位置づけられる思想家であり、現代が一番多かったです。次に多かったのはプラトンやアリストテレス、カエサルなど「古代」の15本、その次は、ニュートンやライプニッツなどの「近代」が8本、それから世阿弥やインノケンティウス3世などの「中世」が5本、最後にデカルトや松尾芭蕉の「近世」が4本でした。また、シンガポールを離れる頃は、例外的に先哲の思想ではなく合唱曲の歌詞と組み合わせたコラムで、それが6本ありました。【整理・分析】

この6本のコラムで組み合わせた合唱曲は、『証』、『あなたへ』、『信じる』、『虹』、『はじまり』、『走る川』でした。これらは、自分がジャパ中で所属していた中学3年5クラスが合唱コンクールで歌ったものと、もう1曲はその中学3年が卒業生として式で歌ったものです。【情報の収集】

この6本のコラムまでの168本までは何がなんでも先哲の思想と結びつけなければと決め込んでいました。しかしシンガポールを離れるにあたり、ジャパ中の大きなイベントであった合唱コンクールの各クラスの合唱曲は、ジャパ中での思い出を振り返るのにふさわしいと考え、合唱曲の歌詞の解釈を用いて、コラムを書いたのでした。【整理・分析】

私は合唱曲6本のコラムを通じて、歌詞の解釈から原理やメカニズムを見出すことの面白さに気づくことができました。そして、それまで自分が行っていた先哲の名言の引用中心の論理展開にはなかった深みのようなものを感じました。【まとめ・表現】

「限界は記憶(安心領域)がつくっている。限界なんてウソ。無限の可能性がある。自分にかけている制限は、ただの記憶だ。」
これはアメリカの経営コンサルタントであるジェームス・スキナーの言葉です。【情報の収集】

スキナーの言葉のように、これまで私は自分で勝手に表現の可能性を狭めていたわけです。このあと私のコラムの表現形式が劇的に変わったわけではありませんが、この経験はその後、様々な表現形式を試みようと考える大きなヒントになったのは間違いありません。【まとめ・表現】

#探究学習がすき   #探究学習
#哲学   #ジェームススキナー

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