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▼哲頭 ⇔ 綴美▲(4枚目とショーペンハウアー)

(哲学を美で表現するとしたら?美を哲学で解釈するとしたら?そんな思いをコラムにしたくなった。自分の作品も含めた、哲学と美の関係を探究する試み。)

今日の1枚は、ヒエロニムス・ボス(ヒエローニュムス・ボシュ)の『七つの大罪と四終』である。
ヒエロニムス・ボスの本名はイェルーン・ファン・アーケンであり、ルネサンス期に活躍したネーデルラントの画家である。彼は聖書をテーマにした作品を多く手掛けているが、聖書の内容を忠実に表現するだけに留まらず、独創的で幻想的な世界を表現した作品も多い。

以前の投稿でも彼の作品は紹介しているし、代表作である『七つの大罪と四終』をモチーフにして、自分の状態を七つの大罪パラメーターで表現してみるとどうなるか、実験的な表現をしたこともある。

『七つの大罪と四終』の中で私が注目しているのは、その構図である。
まず七つの大罪は、キリスト教(カトリック)において死に至る七つの罪として知られているが、聖書に直接的な表現があるわけではなく、4世紀頃にエジプトで活動していた教父であるエヴァグリオス・ポンティコスの著作が起源とされている。また、これら7つは罪そのものというよりも、人間が罪に至る原因と考えられる感情や欲望とも考えられている。

起源など諸説あるものの、七つの大罪はキリスト教(カトリック)において大切な考えの一つになっていることは間違いないだろう。キリスト教はユダヤの教えの中から生まれたものであり、両者の思想的な根幹は同じであると考えることができる。それは「時間の捉え方」からも分かることである。ユダヤ教やキリスト教では、世界は神によって創造され、様々な生き物が生まれ活動し、最終的には世界の終わりとして「最後の審判」がやってくると考えられている。そのため時間というものは、「直線的で後戻りのきかない」ものなのである。

このユダヤ・キリスト教的な時間の捉え方と頻繁に対比されるのが、バラモン教や仏教などの「円環的で繰り返される」時間である。あらゆる存在は永遠の輪廻の中で、生成し消滅するが再び生まれ変わって現れるというものである。

ヒエロニムス・ボスの『七つの大罪と四終』は「円環的な構図」を用いており、そこで七つの罪は円によって繋げられ、繰り返されるようになっている。だからそこには「円環的な時間」が存在しているのである。確かに、七つの罪の円の外側の四方には「死、最後の審判、天国、地獄」がそれぞれ配置されており、ユダヤ・キリスト教の「直線的な時間」の要素も示されているが、人間の生き様を直線的な時間の1点で片づけるのではなく、人間の感情や欲望は尽きることなくグルグルと回り、様々な罪を繰り返すという、「人間の精神世界の円環性」が表現されているように思える。

つまりヒエロニムス・ボスは、西洋に特徴的な直線の時間と、東洋に特徴的な円環の時間を融合させていると考えることができるのである。このような姿勢は、19世紀に活躍したドイツの哲学者であるアルトゥール・ショーペンハウアーの思想にも通ずると私は考えている。ショーペンハウアーは、カント哲学などを土台とし、その後、インド哲学に触れる中で、「世界は主観である意志によって形づくられる客観(客体)」であると考えるようになった。西洋の哲学では、特にデカルト以来、主観と客観は対立するものと考えられ、両者の関係をどのように調停するかという大きな課題に直面していたが、ショーペンハウアーは西洋の哲学とインド哲学を融合させることで、両者の関係を調停させたのである。

しかし、世界というものは、人間の根幹にある「生存という欲望に関わる盲目的な意志」に対応する形で生み出されたものと考えたことで、新たな課題に直面することになる。

盲目的な意志は一時的には満たされることがあり、喜びを覚えるのだが、それは長くは続かず、また欲望を満たしたいという衝動が生まれてしまう。このような満たされない欲望に苦しみ続ける状態は、まさに輪廻の円環性の特徴であった。

しかし、人間というものは思考においても感情においても、右往左往もすれば紆余曲折もする存在だと思う。だから、ショーペンハウアーの世界観は的を射ているし、ヒエロニムス・ボスの7つの罪の円環性にも共感するところである。
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