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出水兵児修養掟
昔からあった多様性~先人の知恵から学ぶ
タイトルは
いずみへこしゅうようおきて
と読むそうだ。
これは江戸時代の薩摩藩で、日頃から武士としての心構えを
掟(おきて)
すなわち
人の行為に関し前もって
方向づけた決まり事
として子供たちに唱えさせていたもののひとつで、当時藩の北の入り口であった出水麓地区で関所の警備にあたる武士の子供たち(出水兵児)の教育に使われていたものらしい。
鹿児島県の出水市は、鶴の渡来地でも有名であるが、日本最大級の武家屋敷群が保存されている地としても観光地化されている。
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私はこの資料を、先日訪れたその武家屋敷群の中にある
出水麓歴史館
で目にした。
展示されていたその資料を何気なく読んでいたが、内容に感銘し現在でも日本人のみならず世界中の人々にも通ずる人類愛に満ちた教えだと思い今回紹介したいと思った次第だ。
その内容は、わずかA4用紙にして1枚に収まるほど簡潔なもので、コピーが無料で持ち帰れるようになっていたが、次のとおりである。
以下原文と口語訳を併せて紹介する。
原文
士は節義(せつぎ)を嗜(たしな)み申すべく候(そうろう)。
節義の嗜(たしな)みと申すものは口に偽りを言わず身に私(わたくし)を構(かま)へず、心直(すなお)にして作法乱れず、礼儀正しくして上(かみ)に諂(へつ)らわず下(した)を侮(あな)どらず人の患難(かんなん)を見捨てず、己(おの)が約諾(やくだく)を違(たが)へず、甲斐(かい)かいしく頼母(たのも)しく、苟且(かりそめ)にも下様(しもざま)の賤(いや)しき物語悪口など話の端(はし)にも出さず、譬(たとえ)恥を知りて首刎(は)ねらるゝとも、己(おのれ)が為すまじき事をせず、死すべき場を一足も引かず、其の心鐡石(てっせき)の如(ごと)く、又温和慈愛(おんわじあい)にして、物の哀(あわ)れを知り人に情(なさけ)あるを以て節義の嗜(たしな)みと申すもの也(なり)。
口語訳
人は正しいことをしないといけない。
正しいこととは、うそを言わないこと、自分よがりの考えを持たないこと、素直で礼儀正しく、目上の人にぺこぺこしたり目下の人を馬鹿にしたりしないこと、困っている人は助け、約束は必ず守り、何事にもいっしょうけんめいやること、人を困らせるような話や悪口などを言ってはいけないし、自分が悪ければ首をはねられるようなことがあっても弁解したりおそれたりしてはいけない、そのような強い心を持つことと、小さなことでこせこせしない広い心で、相手の心の痛みが分かるやさしい心を持っているのが、立派な人と言えるのです。
我々が今生きる日本は、国民主権主義、議会制民主主義、資本主義、自由主義、平等主義、博愛主義等世界中の多くの国々と価値観を同じくするもので、今や普遍的な価値観になっている。
そして多くの人が、それは先の大戦後に湯水のごとく我が国に流れ込んできた欧米諸国の価値観と思っているかもしれないが、それは大きな間違いだ。
ここに紹介した出水兵児修養掟は、江戸時代という武士が支配階級という頃の古いものと思われるかもしれないが、その内容は今の普遍的価値観と遜色ないものだ。
私はこの資料を見て、当時の子供たちは世に出るにあたりこのような教育を受けていたのかと驚いた。
そこに書かれてあるものは、何も支配者階級として他者に威厳を以て接するための処世術的なものではなく、上下の隔てなく人と接し、嘘偽りを口にせず、約束事は必ず守り、物事に一生懸命取り組み、人を困惑させたり悪口を言ったりせず、 自分の行動を常に律して正しいことを行い、強く広い心で慈愛をもって人に接することを説いてたからだった。
そのなかには、先に述べた自由、平等、博愛の精神は既に存在する。
上下の隔てなく人と接するという教えは、まさに自由、平等の発想であり、そこには「差別」の意識すらない。
広く強い心で慈愛をもって人と接するとは、博愛主義そのものだ。
確かに国民主権主義や、議会制民主主義は先の大戦前後に欧米から入ってきたものではあるが、その前提となる自由、平等、博愛の精神は江戸時代の頃から既にあった。
日本は何も立ち遅れた国ではなく、その精神文化は非常に優れたものだった。
戦後自虐史観の蔓延により、江戸時代以前は前近代的な暗黒の時代であったと捉えたがる人がいるが、彼らはこのような精神文化に目を向けようとしない。
最近は、このような価値観に加えて
多様性、SDGs、ジェンダーフリー
などと銘打って、さも先進的な新しい価値観のように吹聴されているが、そのような価値観も日本には既にはるか江戸時代からあったことも多くの日本人が知らない。
幕末に日本を訪れた多くの外国人が、女性が男性と同様に読み書きできることに驚愕しているが、これは江戸時代からなされていた男女の別なく庶民に行われていた「寺小屋」という教育制度のおかげだ。
SDGsの中にある
性別の差別なき教育の機会均等
などは、日本では既に行われていた。
さらに時代を遡れれば、この国の同性愛の歴史ははるか神話の時代まで遡り、その後の時代も裏の風俗文化として存在し、戦国時代の名だたる武将等の稚児溺愛癖などは最たるものであった。
江戸時代になってその風俗文化は「衆道」と名を変えたが、そのような性癖の人たちが当時人から迫害を受けたという歴史もこの国には存在しない。
ジェンダーフリーと大騒ぎしている人たちは、このような我が国の歴史を知っているのだろうか。
ちなみにメディアは、日本は欧米に比べて性的マイノリティに対する理解が少ないと大騒ぎして政権にLGBT法を作らせたが、アメリカでは50ある州のなかで49州が性犯罪の温床になるなどの理由で「反LGBT法」を成立させていることには一言も触れない。
彼ら曰はく
報道しない自由
というものもあるらしい。
多様性とは
人種や性別宗教価値観障害の有無
などさまざまな属性を持った人々
が共存している状態や
その状態を目指す概念
と「AI」から教えてもらった。
しかし出水兵児修養掟では
上下の隔てなく人と接し
困っている人は助け
人を困惑させたり
悪口を言ったりせず
慈愛をもって広い心で
人と接する
と説いており、江戸時代という階級社会であったにもかかわらず、そこに生きる人々は、十分多様性にまで配慮した心豊かな教育を受けてきたことが分かる。
昔の人は、AIなどよりはるかに先に差別なき社会構築を目指していた。
薩摩藩といえば、関ケ原の戦いに敗れたとは言え、財政的には豊かであり、当時の江戸政権からすれば油断できない政敵として存在していた。
このため常に江戸政権の目が光り、その隠密等が密かに視察に訪れていたが、それを防ぐため、藩の北の守りを固める出水麓地区には屈強な武士団が「麓」と呼ばれた集落に多数暮らしていたらしい。
鹿児島の方言の聞きとりが非常に難しいのは、この隠密対策の一環だったという説もあるほどだが、そのような常に緊迫した政治情勢下においても武士団を支える子供たちには、このように人間味溢れる自由・平等・博愛精神と多様性に満ちた豊かな教育が施されていた。
外国から教えられなくても、本来日本人は多様性に満ちた人種だった。
それを先の大戦後にはびこった自虐史観により、戦前の日本の歴史・文化のよい点に封印をされてしまったので、日本人自身が忘れてしまっただけなのだ。
本来日本人は、外見などに惑わされずおおらかな心を持ったキャパシティの広い民族だった。
それゆえに他国のよいものをどんどん取り入れて今の日本があるということができる。
そしてその根底にあるのは
約束は必ず守り
何事も一生懸命する
という日本人の誠実さと勤勉性であろうが、出水兵児修養掟でもそのことが示されている。
江戸時代から、日本は近代国家として羽ばたくことのできる基礎教育がなされていたようなものだ。
この現在にも通用する教育制度には驚愕する。
これらの教育を受けたのが、当時稚児と呼ばれた6歳から15歳の子供であったことを思う時、今の小・中学校教育にも取り入れて欲しいと思うくらいだ。
このような教育を受ければ
いじめ・虐待
などの陰湿な問題も起きないだろう。
人は見かけで判断してはならない。
世の中にはいろいろな人がいる。
その中身で見なくてはならない。
そのためには広い心を持ち
多くのものの見方を
身に着けなければならない。
それが本当の「多様性」なのではないだろうか。
出水兵児修養掟は、静かにそう語りかけているようだった。
そのことを証左する物語もこの資料館に展示されていたので、その話も併せて紹介したい。
山田昌厳(しょうがん)物語~カエルの針とお吸い物~
出水に山田昌厳がやってきた時、出水衆は歓迎会を開きました。
いざ宴会が始まり、出されたお吸い物の蓋を昌厳が開けると、そこにはカエルが一匹入っていました。
新しく来た地頭を小バカにして困らせてやろうと出水衆がいたずらしたのです。
しかし昌厳は、顔色ひとつ変えず、何も言わずにそれを食べました。
出水衆は驚きました。
それからしばらくして今度は歓迎会のお礼にと昌厳が宴会を開きました。
カエルのことがあったので、出水衆はドキドキしていました。
出されたお吸い物の蓋を開けてみると中には針が一本沈めてありました。
昌厳は、「人は外見ではない。見た目が嫌なだけのカエルは食べることができるが、針は飲み込むことができない。小さい針と同じで、人間も見た目では判断できないのだ」ということを出水衆に伝えるために用意したのです。
山田昌厳は寛永6年(1629年)出水郷第3代地頭として福山(現霧島市)から赴任し、勤倹尚武の徳をすすめるとともに、産業の振興にも意を注ぎ、慈愛をもって士民に接し、軽薄の風を厳しく戒め、善政をしいた人物であるが、その風体は小柄で見かけも貧相であった。
このため当初は士民から軽んじられていたが、上記の逸話が示すとおり、その才覚は秀でたものがあり、彼の善政によって出水の士風は盛んになり、その後屈強な「出水兵児」の名がおこったとされる。
人は外見ではない。
中身だ。
それには「多様性」を身に着けて多くの人と接することが必要だ。
昔の人は本当の「多様性」の意味を知っていたと言えるのではないだろうか。
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今でも「出水兵児修養掟」の精神が継承されているらしい