日本を救った偉大な人物
大西郷が導いてくれた不思議な縁
先日ゴールデンウイークを利用して、近場に日帰り旅行をした。
人込みに入って疲れるのは嫌なので、あまり人気のないところの絶景を求めて、鹿児島県薩摩川内市入来町の山中にある
長野滝
というところに妻と二人で出かけた。
ここは、2018年(平成30年)の大河ドラマ「西郷どん」で、主演の鈴木亮平さん演じる西郷隆盛が藩主島津斉彬公の病気治癒を祈願して滝行を行ったロケシーンとして使われた場所らしい。
小さめの滝だったが、ごつごつとした岩がドーム状になっていて、その上の小さな切れ目から水が流れ出ており、神秘的な場所であった。
足元に気をつければ、滝の裏側からも見られる場所であったが、どうもそこまでは足を伸ばす勇気が沸かなかった。
実際西郷がその場所で滝行を行ったのか、それとも単なるロケ地なのかについては触れていないため詳細は分からないが、いかにも祈願のための滝行を行うといった感じの場所にひっそりとたたずむ小さな絶景であった。
ここでしっかりとマイナスイオンをたっぷりと受け止めて、大西郷の心境に近づいたような気持ちにだけなって癒された気分になる。
ただあまりにも人気のない寂しい場所だった。
私たちが滝を後にする時になって、唯一ほかの観光客の車が一台だけ入ってきただけであった。
人間というものは勝手なもので、人込みを避けて静かな場所に来たつもりが、いざそのような場所に長くたたずむと人恋しくなって寂しくなる。
実際長野滝で大西郷が滝行をしたかはともかく、人里離れた山中で一人誰かのためを思って黙々と滝行に没頭していた先人たちは少なからずいただろうと思う。
その精神から比べたら、目の前の心情のみに揺り動かさられる自分のなんとも小さき存在か・・・
長野滝を離れる時にスマホの地図アプリで
近くの名所旧跡・観光
を検索したら
入来町武家屋敷群
というものが出てきたので、少なからず観光客もいる場所であろうと思い、そちらに足を向けた。
長野滝からは車で約30分くらいであった。
入来町武家屋敷群は800年近くの歴史があるもので、薩摩藩当時からの名残を残す武家屋敷群として鹿児島県内の
知覧武家屋敷群
出水武家屋敷群
とともに、国の重要伝統的建造群保存地区(武家町)に選定されているようだ。
またこの地は、西郷隆盛が征韓論に敗れて鹿児島に戻っていた時期に、彼が近くの入来八重山というところで狩猟をした折りに投宿した街でもあるらしい。
そのことからすれば、長野滝が西郷が滝行をした場所のロケ地として選ばれたのも、偶然とは言えないかもしれない。
またこの武家屋敷内は、今でも多くの地元住民の方が生活しており、その居宅の周囲は、いずれも整然とした石垣で囲まれ、そこを歩くだけでも刀を差した武士が街かどからフッと表れてくるのではないかと思わせるようなタイムスリップ感を味わせてくれる。
武家屋敷群内には、観光客のためいくつか立ち入ることのできる観光スポットが設けられており、最初に目に付いた
旧増田邸
というところに足を踏み入れた。
この建物は、近世の武家屋敷の形式を継承するものとして、無料で一般開放されており、中には役場職員等を定年退職したと思しき初老の男性が、観光客に対してレクチャーをしてくれていた。
その方の説明によれば、この邸宅は、明治期には医師(眼科医)となった当主が診察室として使っていた奥座敷もあり、その床の間には、西郷隆盛が書いた(レプリカではあるが)掛け軸が掛けられていた。
説明によれば、この書のもととなった詞自体は、中国「明」の時代の政治家だった
馬 文升(1426~1510)
が書いたもので、掛け軸の文は
世路羊腸千里曲
(よろようちょうせんりのきょく)
功名蝸角幾人間
(こうみょうかかくいくじんかん)
ということだ。
そしてその意味するところは
世間を渡る道は羊の腸のように
長く曲がりくねっている
名を上げてもそれは
カタツムリの角の
上のような狭い世界
のことではないか
ということらしい。
世間を「羊の腸」、功名を「カタツムリの角の上」と比喩するところが、なんとも時代を感じさせる。
この掛け軸の実物は、この家に長らく掛けられていたもので、現在その実物は薩摩川内市へ寄贈されているらしい。
西郷がこの書を書いたとされる明治8年は、彼が征韓論に敗れて鹿児島に戻っていた時期で、上記のとおり近くに狩猟で訪れた際に書かれたものであると考えられているようだ。
実際その内容からしても、明治維新が終わっても今度はその内部で功名を立てようと暗躍した当時の政権中枢を暗に批判したとも受けとれるものだ。
西郷隆盛については、ここで説明するまでもなく誰もが知る江戸から明治へ移る時期の偉大な人物として後世に語り継がれる逸材であるが、征韓論に敗れて政界から身を引き、薩摩に帰って隠遁してからのことについてはあまり知られていない。
薩摩に帰ってからの彼は、そのほとんどを愛犬を連れての狩猟や各地の湯治を楽しむといった、まさに余生ともいうべき日々を過ごしている。
実は上野に立つ西郷隆盛の銅像は、その頃の姿をモデルにしたものであるようだ。
明治維新という時代の大きな波に翻弄されたものの、愛犬ツンとともに薩摩の山野を狩猟をしながら歩く姿こそが彼が送りたかった本来の生き方だったのかもしれない。
しかし彼の回りには、廃刀令や秩禄処分で政治的にも経済的にも特権を失われた旧士族等の不満分子が常に集まっていたことも事実だ。
そして彼らは、新政府立ち上げの貢献者と目されていた西郷をもう一度担ぎ上げて士族階級の復権を図ろうとしていた。
事実その頃の日本は、新政府が立ち上がったとは言え政権中枢はまだ新しい時代へ適応するためにいかに日本という国を作り上げていくかということで暗中模索している状態とも言え、その機に乗じて旧士族等の反乱も全国各地で頻発している状況で、決して国内の治安が安定している状況とは言えなかった。
もしこのような時に、再び欧米列強が居留民保護等の名目で日本に介入してくれば、中国や東南アジア諸国同様その植民地支配の口実とされて、日本も彼らの蚕食の餌食となっていたかもしれない。
おそらく西郷はそのような最悪の事態を招かないためにも、自らの命を投げ捨てて、負けると分かっていた国内最大の内戦とも言われた西南戦争に身を投じ、旧士族階級を道連れにして自らの手で古い時代に幕を引いたのだと思う。
彼の評価は、とかく明治維新どまりのものがほとんどであるが、このことに思いを致せば、彼こそが新しい日本の真の朝ぼらけをもたらした影の功労者と言える。
まことに偉大な救国の主である。
ただし彼は、当時の政権に反乱を起こしたわけであるので、表向きは官軍に逆らった
逆賊
の汚名を着せられてしまい、いまだに護国神社にも祀られていない。
上野の銅像が軍服姿でないのも、そのような理由かららしい。
今回の長野滝から入来武家屋敷群内の旧増田邸に至る道程は、結果的に西郷関連であったが、全くそのような意図をもって訪れたものでもないことを鑑みる時、大西郷の導きを感じずにはいられなかった。
自らの命と引き換えに、日本の自存自立の道標を作ってくれた大西郷の真の姿に思いを至らすことができた有意義な旅であった。