戦争体験者である父の手記:「下関の思い出」第二部・終戦
第一部は上記のリンクからお読みください。親父に戦争話は小さい頃から聞かされていたのですが、親父が僕に語っていた歳に自分がなってみて、いろいろ見えることもあるようです。特に、生計を立てる立場としての祖父母の苦労は筆舌に尽くし難い。「使命」ということがどのようなことなのか・・・収入がなくなったところなど今の自分の立場と重なり、グッときますw
この第二部でも、終戦時の大人が子どもに未来を託す発言の裏に、実は現代の社会での構造も透かし見れるような気がして、ハッとしました。
『海賊とよばれた男』でラジオ修理の話が出て来ましたが・・・それに関わる話も。
『下関の思い出』岡田潔
第二部 ー終戦ー
玉音放送
「玉音放送」は、私どもを驚きのどん底に叩き落としました。戦いに敗れるなんて!
「神風」は一体どこで吹くのか、吹いたのだろうか。
つい先日も、我が国が誇る海軍艦隊は、戦いを挽回するべく総攻撃の準備を整えたという喜ばしいニュースが報道されたばかりでした。蓋を開ければ、海底で準備をしていた訳ですから、全くの皮肉と言うより他はありません。
人間魚雷
工場も慌ただしく閉鎖。軍用船を造る必要がなくなったからです。
そのとき私たちはLBという上陸用船艇と、SSという二人乗りの人間魚雷を造っていました。両側に魚雷を付けたまま、敵の軍艦に体当たりするものだとのことで、一度乗り込んだら潜望鏡のみが海面に出るだけで、外部からハッチを閉めるので、もはや二度と外には出ることが出来ない棺桶と同じものでした。
二、三週間もすれば、自然爆破するものだと聞かされていました。全く人命を粗末にというか、個人など全体に飲み込まれた部品の一つ、国の為には個人はどうでもよかったのです。
人権など全く夢のまた夢、御国のためには死ぬのが当たり前でした。
呪縛の潜んだ、未来へのエール
工場から引き上げる道々、私たちは泣きながら歩いていました。通りすがりの小父さんたちが「泣くな!これからの日本はお前たちの時代だぞ!しっかり頑張ってくれる、たのむぞ!」と声を掛けてくれました。
ひょっとすると、大人たちは戦いに敗れることを知っていたのではないでしょうか。だが純真な私ども少年は、ただ生まれ落ちてから教え込まれた「必勝」のみしか考えることが出来ません。
『一億一心』『負ければ戦車の下敷きに』の標語に恐怖を煽られ、『勝たねばならぬどこまでも』に励まされ、『欲しがりません勝つまでは』に辛抱と忍耐を強いられ、ひたすらに『正義の戦い』を信じて来ました。
学校の先生たち、周囲の大人たち、いや、御国の偉い方々が私たち少年に嘘をついていたのでしょうか?
航空隊を志願し、金ボタンの服に憧れ、祖国日本の為に戦場で華々しく手柄を立て、潔く戦死し、英霊として葬られることを唯一の光栄であり、望みとして若き夢を大事に育ててきたのに・・・。
男の子は、ただ軍人になることのみを、ひたすら最高の途だと、望みを託してきた私たちの将来は一体どうすれば良いのか、何になれば良いのか・・・。
大人たちの変化
先生や、大人の言動に変化が現れて来ました。
今までの「軍国主義用語」であった「忠義」「愛国」「皇国日本」等の、毎日聞かされ言わされてきた、その言葉が聞かれなくなりました。
まさに腑抜けになったように、号令を掛けるものすら無くなりました。不安な毎日が訪れました。
我が家にいた古参兵たちは慌て始めました。
自分たちが占領地で犯してきた数々の悪事が、今度は占領されるわが国で展開される様子を想像して落ち着かなくなったのです。兵隊たちは文書などを次々に焼き捨て、無線機を壊し、武器などを集め海に投げ込み、短刀は身につけ、敵の上陸に備える護身用にしていました。
こんな姿をみて『負けて当たり前だ』との声も聞かれました。
私たち少年の頭ではどのように解釈してよいのか、いままで嘘で固められたものが一度に暴露されたような、それでいて、嘘でも何でもいい、今までのように、何か一本筋を通して支えられたい!
柱を失った屋台のような不安な気持ちのみが続きました。
『教育勅語』『軍人勅論』『宣戦詔勅』等を唯一の支えとして、国家権力は国民を引き摺ってきたのです。
進駐軍
恐れていた進駐軍がいよいよやって来ました。次々とトラックに乗って「ハロー」と大声で叫びながら。
私はこぶしを握り締めて見守りました。もうすぐ殺戮が開始されるのでは・・・。どこから始まるのか、みんな不安でした。だが、特に殺されそうな感じでもなく、全く呆気にとられたような進駐の仕方でした。
『情報部』の人だという、進駐軍の兵隊が三人で父を訪ねてきました。一人は二世とかで通訳でした。
職業柄、拳銃を持っていることをお許し願いたいと丁寧に断りながらも、二階の座敷の外に置いて、中には持って入らなかったようです。
最後に『捕虜の問題をどうお考えですか?』と聞かれて、父ははじめはアメリカ兵のことと思い、話が合わなかったそうですが、よく考えてみると相手の言う捕虜は日本人のことであったのがわかり、びっくりしたそうです。しかし、牧師に対する尊敬、丁寧な扱いと態度に父は感心していました。
近所のカトリックの神父さんが門司の街を歩いていると、突然ジープが止まって二人の進駐兵が降りてきた。驚いて振り返ると丁寧に頭を下げ、この車に乗って欲しいと言う。どこに連れて行かれるのか不安であったが、駐屯地に連れ込まれ百人ほどの兵隊にミサを頼まれたとのこと。神父とはいえ外国の、ましてや先日まで敵国の人間、それに頭を下げ、額ずいて自分の罪を懺悔し告白する、日本では全く考えられないことだと、感心したり、驚いたりしました。
学校再開
学校も始まりましたが、軍隊から先生方がまだ帰ってこられないので、授業らしいものは出来ず、毎日運動場の端に芋畑をこしらえた老先生の手伝いの作業くらいでした。
物資不足の折でもあり、教科書も何もない状態で授業がなければ勉強する材料もなく、ふわふわした希望も何もない、目標を失った空虚な月日が過ぎて行きました。
これから英語の勉強が必要だということでしょうか、真っ黒な紙の『英会話』の本が焼け跡の書店に並びました。これまで私どもは「英語廃止」の国家の方針で、中学に入って英語のアルファベット、ABCを習っただけで、英語を読むことも、見る事も、話すことも、発音することすら禁じられていました。
面白いことに「キャラメル」は「軍粮精」、「ゲートル」を「脚絆」と呼ばせたり、昨日まで使っていた言葉に、神経を使わなければならない日々でした。
『赤い靴、履いていた女の子』という童謡が、レコードで流れたのを聴きつけた憲兵が怒鳴り込んできました。そのレコードを持って行かれました。それほどアメリカ色の一片すらも問題になった時代でした。
灯の下でのクリスマス
我が家にいた兵隊も任務の終わった人から次々と帰郷していきました。
兄貴も復員してきました。兄貴と言っても実兄ではなく、戦争中に船舶隊の船が下関に停泊し乗率してきた際、教会を訪ねて来たのでした。
兄貴は関西学院大学神学部に在籍中「学徒動員」で軍隊に採られたとか、当時見習士官でした。父の教え子であった銀座教会の三井牧師に導かれたとかで、父を「おじいさんに当たる」と言って時間を見つけては決まって訪ねてきました。
私も兄が病死して居ないことでもあり、男の兄弟が欲しかったので本当の兄のように慕いました。横浜の出身でしたが兄弟も多かったことから、岡田家の養子に来たいというほど親しくなりました。
徳山に船舶隊の根拠地があったので、母と幾度か面会に行きました。徳山教会で母のオルガンに合わせて大きな声で讃美歌をいくつも歌い、三人で涙して祈ったことなどありました。
父母も亡くなった我が子の生まれ代わりのように、とても可愛がっていました。もちろん私も兄になってくれることを望みました。
みんなが集まった家庭は、とても心地よく平和で力強いものでした。
「岡田コーラスをやろう!」
父の指導で家族で讃美歌を取り出し合唱の練習を始めました。私は最初アルトを担当しました。だんだんレパートリーも増えました。
その年のクリスマスでした。『情報部の進駐さん』三人を招いて食事をしようと計画されました。それは衣料が不足するという話から、落下傘を貰ったお礼でした。ジープで3枚ほど引き摺って持って来られたが、広げてみるとその大きさに驚きました。母を手伝って裁断するにはとても骨が折れました。だがそのお陰で次々とシャツなど、着るものが出来上がり本当に助かったものでした。
久しぶりに明々とした照明のもとで、三人の目の色の違ったお客と共にクリスマスの食事が始まりました。戦時中のこれまでは「灯火管制」で空襲に備え外に一切光が漏れないように、暗い灯の生活が続いていました。
話が弾む中、母が讃美歌を持って来ました。彼らは英語、私たちは日本語で歌いました。
素晴らしい声の持ち主だったので、美しい合唱でした。多分ニコラスさんという名の方だったと思いますが、故郷のお母さんの話などされて涙を流されたことを覚えています。みんな共に祈りました。彼らの英語でのお祈りはさっぱり分かりませんでしたが、言葉は異なっても賛美もお祈りも、キリストにある信仰は同じなのだ!
このとき初めて新しいものを発見した喜びのようなものを少年の心に感じました。父の祝祷で楽しいひとときも終わりました。
「スパイの子」は・・・
マッカーサーの政策が功を奏したのか、世間はまさにアメリカさん、何かにつけてもアメリカさん。戦時中、さんざん私を苛めた友人たちも「お前んとこの教会に行かせてくれんか」。上級生までも「行ってもええか」と私に言い始めました。
キリスト教はアメリカの宗教、そして思想にも興味を持ったのでしょう。「俺も行っていいか」、次々に私の機嫌をとる人々をみるにつけ変な気持ちでした。
つい先頃まで「スパイの子」と罵られた私が、今では「王子さま」になったようです。
『民主主義』というものが叫ばれはじめ、学校の弁論大会では私が『キリスト教と民主主義』と題して話しました。
聖日礼拝も、学生を中心に出席者だけは多くなりました。活気も増してきましたし、また大人の会員もぼつぼつ疎開地から帰ってきました。
ある聖日礼拝のあとでした。会計役員からの教会会計報告があり、牧師謝礼、三百円、と聞いた友人が「お前のおやじの給料は少ないのう、三百円なら俺いつでも持っているぞ」と言って驚いていました。農家の子でしたので米をちょっと持ち出せばそんなものすぐ出来ると言って、それからは時々「おばさん、これ」と言って芋や野菜などを持ってきて母に渡していました。時には生きたウサギを持って来て「これ食べて」と言ってくれたり、生きた鶏を持って来たこともありました。豆かすが主食のような時代でした。
裸一貫
父は門司の疫済会病院に勤務していましたが、ある日、「私は職を辞めて本来の伝道の仕事に専念したいと思う、世間のみんなは全く目標を失っている、この時期こそキリストの福音を必要する新しい日本を造らなければならない。それには家族の協力が要る。今までは経済的にも何とかなったが、もう一度、裸になろう。収入はなくなる。しかし今、神さまからのお呼びが掛かっていると思う。神さまを信じて出発したい。不自由だろうが我慢して欲しい。」と、私たちを諭して三百円の世界に飛び込みました。
母は再び今日の糧、明日の糧を追い求め悩む日々に放り込まれました。
洋裁塾を始める準備をしている矢先に大変な事が起こりました。
生活の唯一の支えであったミシンが夜中に盗まれました。ミシン泥棒が流行していた折でした。家族一同が起きだしましたが、目の前が真っ暗になった絶望の顔と顔!
母はその場に泣き崩れてしまいました。
闇市などを探しましたが見当たりませんでした。近所の方のお世話で鍋を売りに歩き廻りました。私も学校の先生に一つ買って頂いて小遣いをもらった覚えがあります。
また横浜の兄貴の紹介でニクロム線も売り歩きました。ラジオ屋を一軒ずつ回ったようです。「出光」だったと思いますが、纏まった注文を受けて、母は得意になって横浜まで材料調達に行ったこともありました。
転機
父母が若松教会時代に可愛がっていたという、今では青年実業家になっていた黒木さんが、ある日突然訪れてきました。十数年ぶりだったようです。
『謄写版印刷』の会社を大きくやっているとの事で、話の弾むうち「先生の生活を全部支えさせて欲しい。先生はただ伝道に専念してください。」と言い出されたそうです。
父母も、ここまで成長し成功した教え子にとても喜んだようです。しかしただで世話になるわけには・・・。そこで、下関にも支店を出したいので、先ずは取次店になって欲しいとの依頼を気持ちよく引き受けました。私も当時八幡にあった本店に、お使いなど度々行きました。
黒木さんは父の伝道を手伝うために、小倉、門司、下関に『讃美歌を歌う会』を企画し、会場を借り、ポスターを作り、30名ほどの社員を動員しては貼り廻り全部で百名以上も集めたようです。讃美歌など手に入らない時でしたので謄写版刷りのテキストの讃美歌も評判が良かったのでしょう。礼拝の出席者も増えました。
黒木さんに支えられ、父も水を得た魚のように集う人々に讃美歌を歌うこと、讃美歌の解説と説教など、弾む日々の活動の場を与えられました。
「幼稚園を始めてください」と黒木さんが言い出したのもそれから間もなくのことでした。
亡くなった子供さんの記念のため(日本で言えば供養でしょうか)。『聖トマス丸山愛児幼稚園』と名付け、必要な設備、先生の給料、その他の費用など全てを黒木さんが負担されるとのことで、『キリスト教主義、教会の幼児教育』が、丸山の地で再開されました。
父は牧師先生、母が園長先生、それに二人の先生が揃いました。『園児募集』のポスターが派手に貼られました。可愛い子供たちがたくさん登園してきました。
このように、幼稚園が再開できたのもすべて、黒木さんに負うところでした。園児のお母さんたちは熱心でした。バザーも幾度となく開かれました。寄付や募金にも手分けして走り回ってくれました。園舎も改造され、拡張されましたし、電話も付きました。伝道の基盤、基礎つくりが出来上がりました。
神さまは面白い方だ!
まさに目の前が真っ暗になって、絶望に打ちひしがれ、前途すら全く見えぬ、その沈むばかりのどん底から、新しい道を備え給う。
父の、母の、素直に信じた神さまは、今、まさに、生きて働き給う。
信仰とは、幼子のように、ひたすらな信頼を、神に寄せること。
『あなたがた、幼子のようにならずば、天国の救いに入ることは出来ない。』
聖書の言葉が改めて胸に響いてきます。