意見を持て&意見するな
学校の先生や職場の上司は、生徒そして部下に、
「主体的に自分の意見を持て」という。
例えばこんな場面。
ある4月のこと、学校では学級開きがはじまる。担任が決まり、ニコやかに先生が「先生にはなんでも質問してね!」と言う。
晴れて五年生になった児童たちは「よしなんでも質問してやろう!」と思う。
授業が始まって、児童A「先生トイレに言っていいですか?」と聞く。
担任「お前ら五年生だろ?今まで授業中トイレに行って良かったのか?くだらない質問をするな。」という。
クラスの子どもは、
「やっぱりなんでも質問しちゃだめじゃん。怒られるのなら、質問するの怖いな。でしゃばらないようにしよう。」
となる。
子どもの主体性が担任自身の手で潰された瞬間だった。
よくある場面だし、どっちの言い分も分かる。
このエピソードを見て、
・子どものくだらない屁理屈だと思う人
・子どもが、先生を試したんだと思う人
・四年生までのしつけが悪かったと思う人
・先生の言い方がキツイと思う人
・ルールを徹底するのが大事だと思う人
いろいろ思うところはあるだろう。
子どもがダブルバインド状態になってしまったという事実だけが残った。
こういう事例は全国各地、どんな上下関係にも通底する現象だと考えている。
私は、この例でいえば、担任の先生の「思想」に不十分な所があると考える。
質問とは、質問される人の信念に照合して「賛同する質問」「否定する質問」があると考える。
この担任の先生に確認したいのは、先生が「否定する質問」も含めてかんがえているか、ということである。
ここで、「小学校五年生レベルでできてほしいルールの遵守ができてないから、当たり前だ」というのは一旦置いておきたい。
信念に対して「否定する質問」まで考えるとはどう言うことか。
「否定する質問」を受容し、受容していることを行動で示すことだ。受容するとは、質問を鵜呑みにすることを意味しない。
先の例で、先生がとるべきだったのは、
・「トイレの質問」も「授業に関係する質問」も同じ態度で、同じ表情で応えること。
→つまり、賛同も否定も差別しないとパフォーマンスすることだ。
その後の選択肢として、学級で話し合うのもいいし、個別に応えるのもいい。
このパフォーマンスの重要性を考えているか、ということだ。一度でもイラつきを見せれば、たちまちダブルバインドが発生する。
学校の一場面を出した。
企業組織、アルバイト、政治、家族、
どんな関係においても、この現象は発生する。
自分がこの現象の引き金を引いていないか点検していきたい。