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散文を書くということ。

今までnoteをずっと書き続けてきて、少々SNS疲れもあり、アカウントを消して再開し始めた。

実のところ、noteを始めたのはエッセイを書いてみたかったというのが理由で、今までの30年間というもの読書というインプットをし続けてきたわけだから、そろそろアウトプットというか文章表現でもしてみようということだ。

そういう訳で、どういう形態の文章表現を選択しようかと考えたところ、大好きな正岡子規や寺田寅彦の随筆のように、自分も思いを気ままに綴るエッセイが良いのではないかと考えた。

しかしながら、文豪たちとは違って文才が足りない。今度読もうと思っている数学者の岡潔や、もともと好きだった哲学者の鷲田清一先生の随筆と比べると、自分の文章はけっこう見劣りがするようだ。

そこで、試論や随筆やエッセイという横行な名前は避けて、ただの散文として、気ままに綴ってみることにしたい。それは、自分でも「これは名文だ!」というような文章が書ければ良いのだが、文才が明らかに足りないため、若干締まりの無い文章になっているようだ。ここはちょっとへりくだって、散文という名目でnoteを綴ってみたいと思う。

noteで有名?なエッセイストに塩谷舞さんという自分よりも年下の女性がいるのだが、この人の文章というかエッセイ集が好きで、以前はよく読んでいた。今でも内容はあらかた思い出せる。女性だからか文化が違うからか、自分とは違う発想や視点が満載で、しかも繊細で美的感性が素晴らしく感じる。なかなか第二作目のエッセイ集が出版されないが、首を長くして出版を待っている。

最近はSNSを含めて写真撮影を断舎離してしまい、水彩画やデッサン以外の創作も止めてしまおうと思った。noteのアカウントを消して再開したのも、それが理由である。

しかしながら、しばらく検討状態は続くと思うのだが、文章表現というような大袈裟なものではなく、文章を書くということは自分にとって息を吸って吐くような自然な行為だ。noteの投稿を他のSNSと同列に考えないほうが良いのかもしれない。

とにかく、鬱屈したまま気持ちを吐き出せないというか、心の内にしまい込み、心理学で言う外在化が全くできないのも不健康な感じがする。けっこう穏健な投稿をしていると思うので、気の向いたときに散文を綴りたい。さすがに一旦始めたアメブロには文章らしき投稿をしている人はいなかったが。


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