フェミニズムとメンタルヘルス運動の共通性に関する考察
昨夜はAudibleで文春新書の「フェミニズムってなんですか?」というフェミニズムの本を聴いていた。フェミニズムには以前から興味があったのだが、どういうことなのかが不明だった。韓国フェミニズムやアメリカのフェミニズム活動家の本を借りてきたこともあるが、あまりの過激さに投げ出した事がある。
とはいえ、この文春新書の内容にはほぼ納得が言ったし、女性が社会構造的にも、人権的にも抑圧されている存在であり、今までもそうだった。だから自己の主体性を回復するのだという論調なのでかなり理解が進んだし、主張には共感できた。LGBTが社会的に抑圧された存在として描かれているが、経験的に精神疾患患者やハンセン病患者のほうが酷いような気がするし、精神疾患の人としての尊厳や存在すら認められない状況に対して憤る部分があるから、こうやって文章を綴っている。
それで、フェミニズムの論考をAudibleで聴いていると、先行的にフェミニズムが社会的な影響を与えたと同時に、それが相似形としてブラック・ライヴズ・マターに代表される黒人解放運動と繋がってくるという視座が興味深く映り、ちょっと資料性も高いので、この新書は買っておこうかなと思ったり。
現在のところ、精神疾患差別へのインターネットでのアクティビズムとして、Change.orgのネット署名を試みているが、2つが本サイト上に載りそうな感じなので、賛同者は増えるに越したことはない。ネット署名が社会に対して微力ながら影響を及ぼし続けることになるので、2つ目のネット署名が早く本サイト上に載ってもらいたいものだ。
実際精神医療や精神保健福祉の酷さは30年前から体験しているし、ちょっと東洋経済新報社から出ている「ルポ精神病棟」や都立松沢病院名誉院長斎藤正彦先生の「都立松沢病院の挑戦」という書籍をめくってみると、やはり精神疾患患者の主体性はなく、人間性や人権すら剥奪された状態であることはよく理解できる。それは昨年の東京新聞における日本精神科病院協会会長山崎学氏のインタビューが非難されながらも是とされる風潮に現れている。
先週に、精神疾患も含めた旧優生保護法による人権侵害の裁判が報道されていたが、どちらかと言うと精神疾患に関する論調や報道は少なく、あくまでも排除の論理というか、社会から見えない領域に押し込もうとしている。
しかしながら、現在の精神疾患の患者数の割合は人口の30人に1人という統計だし、生涯罹患率に至っては5人に1人が精神疾患に罹るということになるので、決して障害者でもマイノリティでも無いと考えているが、その論拠はたぶん正しいと思う。やはり厚生労働省もメンタルヘルスを謳い、5大疾病であり、社会的啓蒙をするのなら、精神科医療団体側の都合や仮想された社会全体の言い分(社会とは個人というアトムの集合だろう)に惑わされること無く、患者の人権を回復させる方向に動くべきだと考えている。
実際、この論調に類することを各政党や各メディアに投書してみたが、どうなることやら。とにかく旧優生保護法により精神科医療でも日本精神神経学会の声明がネットに載ったように、一定数の断種等は行われていたようだ。また、以前は日本でもロボトミー手術も行われていたようだから、医療なのか非人間的な抑圧装置なのか、精神科医療に対する信頼性が揺らぐことになるが。
結局、メディアは日和見的なので、自分が投書した各政党が今回の旧優生保護法を巡って、障害者全体にどのような見解を示して国会で活動していくかを見守りたい。ある公党からは良い感触の返信が来たが、動きとしてはどうなることか。フェミニズムに似た社会的排除が極まった形だと思うので、そこは具体的な社会的な動きとして経過を見ていきたい。
今後自分としてはどうするかというと、悲願だったネット署名も2つ立ち上がりそうなので、その動向を見ながら今までやりたくてもやれたかった趣味的分野に力を注いでいけばいいのだが、フェミニズムと違い殆どの患者が社会に物申さず、昔からある患者の活動家団体も主張や活動が社会に伝わっていない気がする。各地にある精神人権センターもいわゆる一般人が舵取りをしていて本人である患者の言説がまったく見えない。
結論を書かなければいけないが、いわゆる精神疾患問題というのは、歴史的にみてフェミニズムに類似した、社会構造と排除の論理による強烈な抑圧状況によって人生が奪われるという点が今でも酷く見受けられるので、そのあたりは既に主張してきたが、今回ひとつの試論としてまとめておくことにする。やはり患者の一人ひとりが声を上げることと、それを少しでもロジカルに論理化していくことが大事なのだと思う。言説を患者の手に取り戻すことが第一歩なのだろう。ハンセン病療養所ですら同人誌が有ったくらいなのだから。
メンタルヘルスアクティビストとしての活動は続けるかわからないが、noteでの時折の主張は歴史的な意味合いもあると考えているので、これは続けていくつもりだ。
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