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第7話 いじめは悪いか

■はじめに


いじめは悪である。それは日本の現代社会では当たり前に広まる最低限の道徳である。ただ、筆者はいじめが悪でない場合があると感じている。恐らくかつての僕のクラスにあったのもいじめだったのだが、それを悪だと思ってる人はいない。それが公になることは無かったからである。

いじめは悪である。ただし条件付きで、それがより大きな集団に公になった場合である。クラスにとってそのいじめはある意味で正義であって、彼がいじめられることで恐らく僕のクラスはうまくまとまっていたのだと思う。僕もまたいじられキャラで、あわよくばいじめられる要素を持っていた。それにいじっていた人間がまさに極悪非道とかでなく普通に仲の良いクラスメイトであった。多分いじめというのはそういうものなのだとも思う。

隣の席の人は出来れば彼と関わりたくなくて、僕もまたそうで、そうやって彼自身の態度やそれに対するみんなの態度を一人一人が感じながら、一クラス分の都合がおおよそ合致したとき、うん、面倒だから雑に扱っとこう、となる。

いじめは良くないという人間は現場で当人との日常を共有することもなく、いじめは悪いとだけ言っていなくなる。確かにいじめは悪い。最悪である。だがしかし、現場にいる人間はどうすればいいのか。一方的でむごいものも世の中にはあるのかもしれないが、僕が経験したそれというのは多少なり迷惑するから起きたものだ。多様性というのはそれを受け入れる基盤があって成り立つのであって、だとすれば彼を支援学級に入れたくない彼の母のエゴでもあるのではないか。

僕にとって都合のいい話である。ただ、多分こういうのは水面下にいくらでもあると思うし、僕はそれを単に悪いと攻撃できない。

正義と悪、善いと悪いについて考える。

■正義と悪


弥生時代でもなんでもいいが、かつて川の水を田んぼに通すために、効率よく水を引く仕組みを考えた若者がいた。村は潤い、作物もより多くとれるようになったので、若者はその村にとって善い行いをした正義のヒーローとして称えられる。ただ、水が乏しくなった下流にいる村にすれば、その若者も、それを良しとする村も悪である。こちらでは飢饉で人が死んでいる。たまったもんではない。若者が水を大量に引くという行為について、上流の村と下流の村で全く逆の都合を有していた。”集団”によって変わる正義がある。

ここは戦国時代の日本。敵将の首を掲げて走る一人の武士は、やがて英雄として地元の人間から愛されることとなった。でも、今の日本で誰かの首を掲げて走り回ろうものなら、猟奇的殺人の犯人として世間を賑わす大罪人となることだろう。集団によって、そして”時代”によって変わる正義がある。

広大な砂漠が広がる地域では、酒を飲んで酔っ払うと容赦ない自然の猛威に殺されてしまう。だから”唯一の絶対的な神”が言うことを厳密に守ることが広まったし、それに倣って酒を飲むのは悪い事だと思ってる。でも日本人にとってそれは神への捧げもので、善いものとされてきた。”場所”によって変わる正義がある。

アフリカで貧困にあえぐ人がいる。世界のどこかに戦争に巻き込まれる人がいる。遠くのどこかで苦しむ彼らを憐れんで憂う我々の心は、通勤通学中に駅で見かけるホームレスを無視して歩みを進める。対象との"距離"によって変わる正義がある。


■結論


善いも悪いも、正義も悪も、元をたどればひとつ残らずすべてが”誰か”にとっての都合である。絶対的な正義などまったくもってあり得ない。上で説明したのは、所属する集団にとっての正義だし、時代によって変わる正義だし、住む環境における正義で、自分事かどうかで変わる正義だ。日本という国家でいえば、日本人という民族が1億人集まったときに立ち上がる正義、それが法だった。現代社会ではインターネットが普及して以降、それを超越して様々なSNSで悪人を吊るし上げる営みというのが行われることとなった。法的な手続きを排除した”私刑執行”であるが、それは我々のそのままの価値観が認めている時点で、ある意味では何よりも”正義”である。今、世の中の正義はSNSに書き連ねられる文字や音声としてそのまま在る。そういう社会で僕たちは生きている。

いじめもまた、多くの人間の目に触れれば悪になるだろうが、それが直接的でなかったり閉じた環境で留まると、それに声を荒げる人間は現れない。ただ、今の世の中はそういう誰かが助けうる多様性の社会である。身近の環境が自分を排除しようとしても、自分を認める人間がどこかにいれば、まずはそれで活路が見える。そういう物理的環境とはまた別に、縦割りのコミュニティがネットを介して横たわっていて、かつて地域に根差したものとは全く違う形で広がりだしている。今起きているいじめの増加についてそれが何に起因するものなのか僕にはまだ分からないが、その逃げ場もまた増えているのではと僕は思っている。

最後に、かつての日々での僕は悪かった。傍観した彼に何をするでもないが、彼が今幸せにあることを願っている。



追伸

少なくとも現代の価値観では、身近な存在を無視して遠くの哀れな人間を助けようとする性質が人にはあるようです。戦争に巻き込まれる人々や世界の貧困層に嘆くことはあれど、すれ違うホームレスに何を施すでも無いのが、ある程度誰しもに共通する人の性だと思ってます。そういう”無責任な正義”について考えるという啓蒙になればと思って書きました。

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