その日。玄米採食の夜。
僕が初めてこの店に足を踏み入れたのは、まだ30代の終わり頃だった。あの頃はカレーといえばインドカレーに飢えていたし、ベンガル地方のスパイスの効いた料理に初めて出会ったあの感動が今も忘れられない。小さな店のカウンターには、いつも何人かの常連が並んでいて、僕もその一員になっていった。
だが、今夜は少し違う。カレーの匂いが漂わない。代わりに、柔らかな玄米の香りと優しい湯気が店の隅々まで染み渡っている。小柄で朗らかで瞳の美しい女性店主が、「今日はマクロビ玄米プレートだけよ」と小声で告げた時、僕たちはみんな同じように少しだけ眉をひそめた。カレーじゃない、というだけでなく、最近、彼女があまりこの店を営業していないことを知っているからだ。彼女はタイ料理を営む彼氏の店の手伝いに行くことが増え、ここで見ることがほとんどなくなってしまっていた。
「カレーもいいけど、玄米もいいもんだよね」と、向かいに座る中年の男が言い出した。それに呼応するように、僕たち常連たちは互いに頷き、玄米プレートに箸を伸ばす。しっとりと炊かれた玄米に、ほんのり味付けされた根菜が添えられている。それはそれで、心がほっこりする味だった。
「玄米プレートもいいじゃないか、体にもいいし、きっと俺たちも長生きできるぞ」なんて誰かが冗談交じりに笑った。僕もつられて笑ったが、その笑いの奥に少しだけ寂しさが漂っていた。みんな感じているだろう。彼女がいないこの店の空気には、何かが欠けている。彼女のスパイス使いは独特で、どこか甘さと苦味が同居していて、まるで彼女自身のような深みがあった。その味をまた味わいたい、そんな願いが僕ら全員の心に小さく灯っているようだった。
会話は自然と途切れ、誰もが目の前の玄米プレートを眺めていた。ふと、「カレーが恋しいね」と僕が口を滑らせると、一瞬の沈黙の後、みんなが笑い始めた。「そうだね、また彼女が帰ってくるまで我慢だね」なんて声も聞こえてくる。
夜も更け、店を後にする僕の心には小さな寂しさが残っていた。でも、それは彼女が戻ってきたときに埋まるだろうと、どこかで信じている。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?