風はインドの東から
灼熱の夏の昼下がり、僕は久しぶりに天満の小さなカレー屋「カルカッタ」へと足を運んでいた。路地裏にひっそりと佇むその店は、東インド・ベンガル地方のカレーを出すことで有名で、僕の行きつけの場所だった。ここ数年、仕事に追われ、訪れる機会がなかったけれど、今日はどうしてもあのスパイスの香りが恋しくなって足を運んだ。
店の扉を開けると、ひんやりとした空気が僕を迎えてくれる。エアコンの効いた店内は、外の暑さがまるで別の世界のように感じられるほどだった。カウンター席に腰を下ろし、店内を見渡す。変わらない、木の温もりが感じられるシンプルな内装。壁には少し色褪せたポスターがいくつか貼られている。それでも、何かが変わったような気がした。
「お久しぶりですね」
カウンターの向こうから、店主の奈々子さんが笑顔で声をかけてくる。彼女はベンガルカレーの作り手として、昔から変わらない落ち着いた風情を持っている。彼女の目尻のシワが、時間の経過を感じさせたが、その笑顔はいつもと同じだった。
「本当に久しぶりだね。最近忙しくてね」
「そうでしょうね、建築設計士さんは忙しいんでしょう?でも、今日はちゃんとカレーを食べに来てくれて嬉しいわ」
僕は軽くうなずき、メニューを手に取る。もちろん、メニューを見るまでもなく、頼むものは決まっている。ここに来たら、ベンガルカレー一択だ。スパイスの効いたチキンカレーが、じわじわと汗をかく夏の日には最高なのだ。
「ベンガルカレーをお願いします」
奈々子さんはにっこりと頷いて、キッチンに向かう。彼女の背中を見送りながら、僕はカウンターの隣の席に座っている女性に目をやった。彼女は、若い女性で、おそらく20代前半だろう。バイトの女の子のようだ。彼女は、長い黒髪を一つにまとめ、真剣な表情でスパイスを調合している。
「新しいバイトさんですか?」
「そうよ、彼女、料理が大好きで、ここで修行中なの。まだ若いけど、センスは抜群よ」
奈々子さんの言葉に、彼女は恥ずかしそうに微笑む。その表情は、どこか初々しく、僕は懐かしい感覚にとらわれた。
店内には他にも常連客が数人いた。その中には、かつて僕と付き合いかけた女性、沙織の姿もあった。彼女は最近、間借りでカレー屋を始めたという噂を耳にしていたが、実際に会うのは久しぶりだった。沙織はカウンターの端に座り、スマホで何かを確認している。ふと、視線が合うと、彼女は微笑んで軽く手を振った。
「久しぶりね、元気にしてた?」
「まぁ、ぼちぼちね」
そんな会話が自然と始まる。僕たちは昔、もう少しで付き合いそうになったことがあるが、結局うまくいかなかった。けれど、その過去を引きずることなく、今はこうして普通に話せる関係になっている。それが不思議でもあり、どこか心地よかった。
やがて、カレーが運ばれてくる。スパイスの香りが鼻をくすぐり、食欲が一気に増す。湯気の立つカレーは、まるで夏の暑さそのものを閉じ込めたかのようだ。僕は一口食べて、その味を確かめる。変わらない、深い味わい。汗がじわりと額ににじむが、それさえも心地よい。
「やっぱり、このカレーは最高だね」
奈々子さんも沙織も、そしてバイトの女の子も、それぞれに微笑んでいる。店内は静かで、しかしどこか温かい空気に包まれていた。外はまだまだ夏の熱気が続いているだろうが、この小さな店の中だけは、時間がゆっくりと流れているようだった。
僕はそんなひとときを楽しみながら、カレーの皿をゆっくりと空にしていった。