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秋の東京、ボンベイの玉ねぎ。
東京の秋には独特の匂いがある。湿り気を含んだ枯れ葉の香り、そしてどこか懐かしい風の音。そういう匂いや音が、僕を昔に戻す。あの日もその匂いを胸いっぱいに吸い込みながら新幹線の窓際に座っていた。でも、この日の天気は残念ながら最悪だった。大雨で新幹線は遅れに遅れ、昼に予定していた「お目当てのカレー店」行きはあえなく断念することになった。
とはいえ、空腹には逆らえない。目的地近くの高田馬場で急きょ探したのが「ボンベイ」というインドカレーの店だった。実に何の変哲もないビルの二階にあるのだが、ドアを開けるとほんのりスパイスの香りが立ち込めていた。広々とした店内には、なんと僕しか客がいない。その静けさに少しだけ驚きながらも、心のどこかで小さくガッツポーズを決めた。
店主は若い女性で、茶色のエプロンがなんとも可愛らしい。僕が着席すると、にっこりと微笑んで「今日は雨ですから、こんな日に来てくださってありがとうございます」と軽やかに挨拶してくれた。彼女の声にはまるで猫がゴロゴロと喉を鳴らすような優しさがあって、思わずこちらも微笑んでしまった。
「この店、玉ねぎのピクルスが絶品なんです」と彼女は自信満々に言う。正直、僕は玉ねぎが大の苦手だ。いつからか、あの独特の辛味や香りがどうにも鼻についてしまい、避けるようになっていた。でも彼女がそこまで言うなら、と試してみることにした。
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カレーの香りと共に出されたピクルスは、見るからに鮮やかな色をしていた。恐る恐る一口頬張ると、酸味と甘味が絶妙に絡み合い、舌の上で踊るようだった。驚いたことに、いつも嫌っていた玉ねぎの辛味が妙に心地よく、思わずもう一口手を伸ばしていた。隣で僕の表情を見ていた彼女が、嬉しそうに笑っているのがなんとも微笑ましい。
「実は、僕、玉ねぎが苦手なんだ」と告白すると、彼女は目を丸くして笑った。「それなのに食べてくれて嬉しいです。じゃあ、特製の辛口カレーもきっと気に入ってもらえるはずです」
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カレーが運ばれてきて、一口食べると、これもまた絶品だった。香辛料の香りが立ち上がり、じんわりと体が温まる。彼女と軽い冗談を交わしながら、カレーとピクルスをじっくり味わった。まるで雨の日に出会ったちょっとした奇跡のようだった。
気づけば雨も小降りになり、東京の街がしっとりと秋の装いに染まっている。「ボンベイ」のカウンターに座りながら、なんだか僕は自分が少しだけ新しい自分になった気がした。玉ねぎが少し好きになったのかもしれないし、いや、実は東京の秋がそうさせているのかもしれない。
支払いを済ませて店を出ると、彼女がドアの向こうから「またぜひいらしてくださいね」と小さく手を振った。その声は、東京の秋風に乗って僕の耳に届いた。雨上がりの高田馬場の通りを一人歩きながら、僕は新しい出会いの余韻を胸に、次の目的地へと向かっていった。