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ネコとカレーとディテールと
その日は、街がほんの少しだけ穏やかだった。冬の始まりの匂いが空気の中に漂い、気分を変えたいような気持ちにさせる。僕は仕事帰りにふと、あのベンガルカレーの店のことを思い出した。前にネコに連れられて行った、奇妙な経緯で出会った店だ。そう、正確には連れられたのではなく、ただ路地裏で出会った猫が、僕をその店の前に導いただけだ。でも、そんな細かいことはどうでもいい。大切なのは、そのカレーの味と、あの不思議な居心地の良さだった。
店に入ると、いつもの女性店主がにっこりと笑顔を浮かべて迎えてくれた。彼女の顔には、どこか猫を思わせる柔らかな丸みと、いたずらっぽい目の輝きがある。傍らには例の猫も座っていて、僕を見上げながら「また来たのか」というような表情をしている。こいつ、ほんとにただの猫なのか?そんな疑問が頭をよぎるが、答えを知ることに特別な意味はない。
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「今日は何にします?」
「いつものベンガルカレーを」
店主が奥のキッチンに消えると、僕はいつもの木製カウンターに腰を下ろした。カウンターの表面には長年使い込まれた傷跡が刻まれていて、どれもこの場所の記憶を静かに語っているようだった。奥から香辛料の心地よい香りが漂い、思わず深呼吸をする。ターメリックやクミン、コリアンダーの香りが、僕の疲れた脳を優しく解きほぐしてくれる。
そして、カレーが運ばれてきた瞬間、僕は目を見張った。
「これ……皿が猫の手?」
気づかなかった。今まで何度もこのカレーを食べたのに、一度も気づかなかった。皿の周りに猫の指の肉球のようなくぼみが五つ、そしてまんなかのご飯の部分はまさに肉球だ。明らかに猫の手をモチーフにしているのだ。僕は思わず指で皿の縁を撫でた。その手触りは驚くほど滑らかで、温かみさえ感じる。
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「気づきました?」と店主が笑顔で言った。「それ、特注なんですよ。猫好きの陶芸家に頼んで作ってもらったんです。気に入ってもらえたら嬉しいです」
「素晴らしいですね」と僕は答えた。「なんで今まで気づかなかったんだろう」
皿をじっと見つめながら、僕はふと建築のことを考えた。建築もそうだ。ディテールが命を持つ。その細部が空間に魂を吹き込む。大きな構造はもちろん重要だけれど、最後に人の心を動かすのは、さりげない装飾や意匠だ。僕がこの皿に感動したのも、たぶんそのディテールの美しさが心に響いたからだろう。
カレーを一口食べると、スパイスの複雑な層が口の中で踊り出す。舌の上で小さなパレードが繰り広げられているようだった。そして皿の存在が、これまで以上にその味を引き立てている気がした。
猫はカウンターの上に飛び乗り、僕の皿をじっと見つめている。まるで「どうだ、俺たちの仕事は」と言っているようだった。僕は微笑みながら小さく頷いた。
カレーを食べ終わり、店を出る頃には、外の空気はさらに冷たくなっていた。でも、不思議と心はぽかぽかしていた。あの猫と、猫の手の皿と、そしてベンガルカレー。その全てが絶妙に絡み合い、僕の中に小さな物語を作り上げていた。
細部に宿る神様に、今日は少しだけ感謝したい気分だ。
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