漢文の海で釣りをして【第1回】小さな春でも、春は春
【漢文ってスゴいんです】
中国の大地に甲骨文字が生まれて爾来数千年。漢字で書かれた文章…すなわち漢文はその知恵を蓄積させ続けて、現代にまで読み継がれています。
歴史的に漢字を使用してきた国々では、ひとつの共通言語としての役割を果たしてきました。漢字文化圏において漢文は、国境はもちろん時代をも超えることが出来ます。
例えば『韓非子』に出てくる「矛盾」という言葉などは、千年前の中国の官吏でも、五百年前の朝鮮王朝の学者でも、現代の日本人でも、その意味を共有できるということです。
これってスゴいことなんですよ。
数千年の時代の中で蓄積された漢文の海には面白い「素材」がたくさん泳いでいます。
ひとつ、その海の中に釣糸を垂れてみては釣れた章句を好き勝手に解釈してみよう。
「漢文の海で釣りをして」
今日の釣果はなんでしょうか?ボウズの日(何も浮かばない日)もあるのはご愛嬌。
【春はどこにある?】
「春は枝頭に在りて 已に十分」
(戴益「探春」)
≪訳≫春は庭先の枝の先あった
第1回ということで好きな一句をご紹介。「探春」という漢詩より。この詩をつくった戴益は宋の時代の人ということ以外は不明この「探春」以外の詩も現代に伝わっていません。
「春在枝頭已十分」はその中の一句。
漢詩としてよりも禅語として取り上げられることが多いフレーズです。
全文の書き下し文はこんな感じになります。
盡日春を尋ねて 春を見ず
杖藜踏み破る 幾重の雲
歸り來りて試みに 梅梢を把って見れば
春は枝頭に在りて 已に十分
書き下し文としては割と分かりやすいですが、それでも直訳だと意味が通じにくい部分があるので全文を意訳してみます。
一日中、春を探し回ったが春を見つけることはできなかった。
粗末な杖をつきながら空に浮かぶ雲をいくつも見ながら歩き回った。
クタクタになって帰ってきてふと庭先の梅を見てみると蕾が膨らんでいる。
ああ、探していた春はこんな近くにあったじゃないか。
この詩の形式は七言絶句。学校の漢文の授業で習わされたあれです。七文字の一句が四句…わずか漢字数にして二十八文字の短い詩ですが、ひとつの物語として見事に完成していますね。
さてさて。
満開に咲き誇る花ばかりが春ではありません。陽光の下でさえずるウグイスの賑やかな声だけが春の訪れを告げるわけではありません。
くたびれるまで歩き回らなくても自分の手の届くところに「春」はある。かの大先生である孟子も「道は近きにあり」なんて言っていますが、「庭先の梅の枝を見てごらんよ」というこの詩の方が説教臭くなくてよいでしょう?
大きな「春」を探すあまり遠くばかりを見て、身近にある小さな…しかしこれから花を咲かせる蕾のような「春」を見落としていませんか。