人間の欲に対する深い洞察 インド児童向け図書『花を愛しなさい』
心のお洗濯と思って7月一か月間、一人でハイデラバードに住んでみた。
色々と、インドで独りで暮らす大変さや、土地勘のない場所での苦労、交通マナーやオートリクシャー運転手の横暴、挙句の果てに最後の週に熱帯特有の高熱が出てしまい、楽しい滞在も何だかしりすぼみになった。
お宿の人たちに助けられてクリニックで薬ももらい、ぐったりした状態でプネーに還った。
さて、そこでいくつかテルグ語の本を買った。しかしながら、その疲れからまた軽い鬱になってしまい、やっと今、本を読んでみようという気持ちに慣れた。
そこで子供向けのお話、と書いてある本を手に取った。タイトルは『花を愛しなさい』。きっと心が美しくなる話が書かれているのだろうと思い、スマホの自動翻訳を参考に、一番目の話を読んでみた。
わずか3ページの話で、タイトルは「いい友達」。
さぞや美しい話が…と思ったら…
おや?子供が怪訝な顔で見ている先には…警察にとっ捕まった男…??どういう話なんだ??
話を読んでびっくらこいた。
「いい友達」のあらすじ
アショーク少年は、友人のラマンを賭けポーカーに誘う。しかしそれをきっぱり断るラマン。実はラマンの家で、お祭り(ディワリ)の日だけ特別と、祖父が家族でポーカーをやることを許したところ、ラマンの父がポーカー狂いになり、遂には所得の大部分を賭けポーカーにつぎ込む始末。父は「家族が許したからポーカーなんかにハマったんだ」と言い訳。
ラマンの苦々しい体験も、「僕は弱い人間じゃないんだから」と言ってアショークは聞き入れない(無意識に出た言葉で人を貶める)。
ディワリの日、アショークは賭けポーカーをしに行ってしまった。おまけに、ラマンには「親には言うな」と口止めしていたのである。
アショークの姿が見えないのでアショークの母に彼を探すよう頼まれたラマンは、何も伝えることなく、アショークを賭けの場所に探しに行き、来たがらないアショークを「一緒に来ないなら親にばらす」と脅迫、やっとそこから連れ出すことに成功。
その後アショークは警察に連行される賭けポーカー友達の姿を見て、ラマンに「君はいい友達だ」と感謝する。
おわり。
これ本当に子供向けなのか。
筆者はウッタルプラデーシュ出身で、1952年に産まれた女性、パヴィトラ・アガルワル氏。本は2016年に出た模様。
ここから何を思うか。
私はかつて大学院時代、「ここでごみを捨てるべからず、という看板があるということは、そこにごみを捨てる人がいるということだ」というアドバイスをもらい、何とかして修論を書いた。このテクニックに照らすと以下のようなことが想像される。
①子供が賭けポーカーに手を出すリスクがある。
②それは、筆者の育ったUP州でのむかしの話なのかもしれない。
③簡単にポーカーにハマり、一家の大黒柱である父親が金をつぎ込む有様になるような家庭が存在する。
④ポーカーにハマった父親(大人です)の他責ぶり。欲望に駆られた人間に自我はないと考えられているのか。
⑤親にばれたら困るという認識はあったアショーク。欲望に駆られた人間に(略)
⑥とても失礼なこと(ラマン父と自分は違うという謂い)でも、うっかり思ったことを言ってしまう。
人が誘惑や欲望に弱い存在として描かれているが、特に道徳や倫理の面から批判されているふしが見えない。「賭けにハマったら抜け出せないよ」という、人間の欲の仕組みをよく分かっていることに驚く。
そして、そばにちゃんと経験から学んだ賢い人がいれば、悪事に深入りする前に抜け出せるかもしれない…そういうことなのだろうか。
何とも言えず、インド・インフォーマル・セクタ―の精神世界が垣間見えた気がしたし、日本ならば、まんが日本昔話の中でスーパーナチュラルな力を絡めて戒められるようなお話が、一切の神秘化もなく、さり気なく描かれている。
ずっとそう書いて来たつもりだが、昔々日本に渡来したインド要素は、まんが日本昔ばなしの中に残存し、エコーとなって日本人の心から消えつつある。
昨今のインド映画の静かな普及は、日本に再び生のインド要素が移入されようとしている画期的事件なのではないか…そういう妄想は楽しい。
ページをめくると、二番目のタイトルは「誕生日プレゼント。まあ普通だ。
三番目には「泥棒たちがいなくなった(多分)」という物騒なタイトルが。一体。主人公は二十歳の娘。子供向けなのか??タイトルの『花を愛しなさい』はどうなったのか。
花は花は花は咲く。
是非読みたい。
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