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映画メモ 10月2週目
今回のラインナップ:
①CTRL Netflixで鑑賞 ←主演のAnanya Pandayに好感を持った。💛💛
②When Evil Lurks Amazon primeで鑑賞 ←アルゼンチンホラー、最恐💛💛💛
③CENSOR Amazon primeで鑑賞 ←ビデオ華やかなりし頃の悪夢💛💛
④House of Spoils Amazon primeで鑑賞 ←進歩主義的魔女映画💛💛
色々書いたら結構疲れてしまった。
(10月16日訂正:CENSORに関し、阻害→疎外。お恥ずかしい)
①CTRL(インド・ヒンディー語、2024年):若いインフルエンサーの挫折と再生
あらすじ:
ネラ(Ananya Panday好演)は彼氏のジョーと共にページを立ち上げ、一躍人気インフルエンサーに。ところがジョーにサプライズパーティを仕掛けようとしたところ、別の女とキスしているところを目撃、大立ち回りに発展、それを拡散、ネットミーム化されてしまう。しかし、人生を作り変えるという触れ込みのAIアプリ「CTRL」をPCに入れ、心機一転、一人で活動をはじめるや再び人気者に。そんなとき、ジョーが失踪したという知らせが入る。
Ananya Pandayを観る映画
正直Ananya Pandayは、モデル上がりの女優かなくらいにしか思っておらず、他の作品で観てもいい役じゃなかったので軽く観ていたのだが、本作ではすばらしい。好きになった。
他の方の批評では、ハイテクスリラーとしては弱く、またネラの描写もそこまで深みが無いと書かれてもいた。私もそれに同意見なのだが、その欠点をカバーしておつりが来るくらい、彼女の演技はいきいきしていた。まるでネラが実在するかのように。
ムンバイのインフルエンサーでファッションモデルにまでなった人気者のネラの在り様は、私たち平民が若いボリウッドスターに投影するイメージそのものだ。
また、どんな服も着こなすキラキラのスターでありながら、人の中傷に傷つき、彼氏の浮気に傷つき、何とか自分を立て直そうと奮闘する普通の人の弱さも持っている。
そんな役柄がご本人にピタッとハマったように見える。
デリーの実家は彼女の活動に反対で、ほぼ勘当状態。父親と没交渉であり、母親も彼女が何をしたいのか分かっていない。また、ジョーは、彼女のやりたいことに付き合わされていることに辟易していた。
それぞれの嬉しくない事実に向き合わねばならない苦さ。
今若い皆が憧れる等身大(ではないんだけど)の女性像なのだろう。親との関係に悩み、家を出たはいいが結局戻って来ることになるところの哀しさ!近所の人に噂されてしまって恥ずかしい。
キラキラの人気者だって、少しの手違いや悪意によって、空疎な夢を追っている一般人に戻されてしまい、親にも気を使う情けない日々…というところが良かった。
そんな彼女が最後にすることは私には釈然としないのだが、ただ彼女の孤独と寂しさ、困惑はよく伝わって来た。Ananya Pandayの実力であろう。これからも注視したい。
②When Evil Luerks(アルゼンチン、2023年):仁義なきアルゼンチンホラー
あらすじ:
ペドロとハイメの兄弟は牧場の周辺で起きている怪異から逃れるため、家を捨て、ペドロの別れた妻と子や母親と共に逃げ出すが、怪異は彼らを追ってくるのだった。
子供も惨めに死ぬ爆走アルゼンチンホラー
本作予告編を観たときからずっと気になっていたので、Amazon priceで発見して小躍り。
アルゼンチンホラーは展開が速すぎる。大体、冒頭からもう何か問題の最中にいたりする。
今回も、何の説明もないまま、近所の家の男が呪いにより体が腐っているのを知り、兄弟は近所の男と協力して彼を捨てて来るのだが、それが結局あだとなり、呪いは広がって行くのだった。
日本の『呪怨』に近いかもしれない。ストーリーはあるのだが、どうせいいことにはならないだろうと思って観ているとやっぱりひどいことになって行く。
呪いの起源や正体は、悪魔という名前を付けられている。農場を舞台にした悪魔憑きホラー『ダーク・アンド・ウィケッド』とも似てはいるものの、こちらの場合は、家族の想いとか哀しみとかを容赦なくぶち壊し、踏みにじり、ずたずたに引き裂いてしまう。そこに容赦がない。
悪魔というものは本来はこうして恐れられている(それはインドネシア映画『Grave torture』における天使に近い)ものなのだ。そして、悪魔の側に神様の存在を思い出させるつもりも無さそうなのが特徴ね。
子供も無残に殺されるし、死ぬとは思わなかった人がいきなり死ぬのでびっくりする。また、悪魔が憑いた人間たちの末路もおぞましく、実際の猟奇事件などを参考にしていそうでひどく悪質だ。救いなどは最初から想定されていない。
南米のパリから一転、経済的没落や、ポピュリズム、そして軍事独裁に暴動等、アルゼンチン社会の経験して来た苦難や恐怖は、おそらくこうして今でも映画の中に揺らめいているのだと思われる。なんちゃって。
③CENSOR(イギリス、2021年):抑圧の果ての進歩主義?
あらすじ:
80年代、サッチャー政権下のイギリス、レンタルビデオ氾濫時代を迎え、過激だとされた低予算ホラー映画ビデオは「Video Nasty」と呼ばれ、検閲の対象とされていた。検閲官のイーニドはある日、検閲対象のビデオの中に失踪した妹にそっくりな女優を見つける。彼女を追い求めるうちに精神のバランスを崩していくイーニドの運命は。
私の探していたものはこれなのよ
イーニドは人生の中で何かが欠けていると感じ続け、それを探し求めていた。しかし探し求めていたものが必ずしも自分の倫理観に合致するものとは限らないという不運が面白い(嫌ったらしい)。
80年代前までのイギリスは保守的で自由を認めないお堅い社会だった。しかしながら、21世紀のイギリスは、それまでの停滞をひっくり返す勢いで、グローバル化と進歩主義化を推し進めたのだ…そういう見方に立った映画なのだろう。
ところで、イーニドは、長年己の中に潜む願望を見ないようにしてきたことが分かる。保守的な社会の中では「欲望」は抑圧され否定されて来た。
だが、欲望を何でもかんでも解放していいのか?という問いが、進歩主義を体験した社会から出てきているのだと読むと本作どう見えるだろう。
最後、イーニドは、己の欲望を開放していくが、それは自分の倫理観とは程遠い。故に、自分の頭に虚構のハッピーエンドを作り出している。この態度を自己検閲と社会の抑圧の果ての狂気だと取ることもできよう。
現在我々が現実に目撃している進歩主義は、それぞれ己の中にある欲望を既存の社会秩序(それは保守的で抑圧的なはずだ)よりも上位に置き、いつでもどこでも普遍的に自己は外から肯定されるべきだという思想を称賛、乃至は実践する態度のように思われる。
しかし、自己を拡張すれば、他の自己と衝突する。社会秩序はその衝突をいかに回避しつつ、それぞれが安全にいられるかを取り決める線でもある。そのために抑圧されたり否定される人が必ず出るし、人権の思想はその阻害疎外される人をできる限り減らして来た。しかし0にはならない。
進歩主義者はこう考える:「線なんかなくしてしまえば、阻害疎外される者はゼロになるじゃないか」
進歩主義者の頭の中には、己が欲望を主張するとき、イーニドが最後に観るハッピーエンド映画のようなものが流れているのかもしれない。彼らには、自己の欲望を社会や他者に全面的に認めさせる行為は、頭の中では美しい虹色の理想郷として虚構されている可能性がある。
その理想郷のビデオ映画は、進歩主義を実現することによって生じる不都合な現実(誰かの欲望を拡張すれば、誰かが我慢を強いられ、ときに安全を奪われる)を覆い隠してくれる。だから『それはともかく』などと、現実的・身体的な感覚を「理想」より劣ったものとして等閑視できちゃうのだ。
自己の欲望は、自己破壊的でもあり得る。それさえも認めるべきだというのが進歩主義者だ。本当に社会はそれでいいのだろうか?己の倫理観に反し、自己破壊的な欲望の噴出をホラーとして見せている以上は、やはり、「社会秩序という線」は皆が共有し、欲してすらいるのではあるまいか。
そんなことを考えさせられる。私だけかもしれないが。
④House of Spoils(2024年、アメリカ・ブラムハウス・テレビジョン製作)
あらすじ:
人気レストランのシェフを務める女性(役に名前が無い)は、一念発起、夢の自分だけの田舎のレストランを持つことになる。しかしながら、怪異の頻発によってことが全くうまく行かず、オープン前にクビにされそうになる。レストランの過去を調べるうち、かつての持ち主が管理していた数々のオーガニック食のレシピを発見し、次第にのめり込んでいく。
オーガニック食品は造反有理、革命無罪。
田舎の一軒家を改造したオサレレストランはどうやって勝つのか??オーガニック野菜を作って出すのよ!!!
オーガニック料理は、その一軒家の前の住人(魔女だとうわさされた)が残していった怪しげな植物と大量のレシピによって作られる。オーガニックの力を信じた者が最後に勝利する。
オーガニックによって資本主義社会における勝利を手にするというのは皮肉すぎる。おそらくこれは革命の始まりの物語だ。オーガニック革命(昆虫食もあるよ)で意識の高いド金持ちの胃袋を支配すれば、社会など簡単に乗っ取ることができる…
そういう風に見ることは自分でも嫌だなと思うのだが、アメリカ映画の中でここまで革命思想が支持されているのを見てしまうと、当然アメリカの国是との衝突を生むから反発もあるだろうし、実際今そうなっているのではないかと想像する。
浅薄なファッション革命思想、で終わればいいのだが、現実は…アメリカの人々がアメリカ的価値観をひっくり返す「革命」を本気だと取り始めている今、こういうブラムハウスらしいホラー映画はいかにも有閑階級のための娯楽だという感じがする。いや、実際そうなんだろう。
魔女=悪者なんて昔の話
散々悪魔祓い映画について書いて来た。魔女映画は最近どうなっているか、と言えば、アニメ『パラノーマン』のように、魔女は、規範から外れた女に与えられた汚名であり、言いがかりであり、蔑視なのだという風に読み替えるお話も力を得ているように思う。
『ザ・クラフト』の続編は、元の映画を否定する形で『魔女=正義の味方』と書き換えた。
と同時に、依然、魔女を恐ろしい存在として描く古典的な映画も多い。魔女というレッテルそのものを『魔女で何が悪いんだ』と超越的な立場をとる映画、魔女は濡れ衣であるから『魔女なんかいない』と否定する映画、魔女は生前の怨念を晴らす存在だという幽霊に近い解釈など、様々だ。
本作がどれに当てはまるかは見てのお楽しみ。