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トランプ現象に寄せて① 『ゲット・アウト』を見直す。

体調を崩したりして映画館に行けず…また話題作の『Bhool bhulaiyaa 3』『Singham again』の評価が低くて観たいという意欲がうせてしまった。

『Bagheera』は中二病趣味とマッチョ趣味を満足させてくれそうだったがプネー地区では上映が終わってしまった。

また、折からのトランプ政権成立という事件も起き、久しぶりに色々思い出した。ホラー映画に関する本が書きたいという夢も。

その夢に一歩でも近づくため、というわけでもないが、なんとなく、配信で、ジョーダン・ピールの2017年の監督作『ゲット・アウト』を鑑賞した。

あらすじ:黒人の写真家クリスは白人の恋人ローズの実家に招かれる。親切な家族にもてなされるも、端々に引っかかるものを感じるクリス。使用人たちの奇行や来客の不穏な発言に不安を感じ、家に帰ろうとするが…。
監督:ジョーダン・ピール
出演:ダニエル・カルーヤ、アリソン・ウィリアムズ他
2017年公開

感想

久しぶりに見直して、ローズのサイコパスっぷりが光っていたし(アリソン・ウィリアムズはあんな嫌われ役をよくやった。『ミーガン』でも偽善的な役を演じ切っており感心した)、ママの魔女っぷり、マッドサイエンティストなパパ、抑えきれてない弟の暴力性、決め台詞「ノー、ノーノーノ―」なメイド、真夜中に暴走する使用人等、キャラクターが厭ったらしくて面白い。また、親友のロッドがいいやつでホッとさせられる。

また、表面的に「いいこと」しか言わない人達が隠している本音を見抜くには、危機察知能力が必要なのだとも教えている。

冒頭の誘拐シーンにもはっきり出ているが、黒人であるクリスは、人生経験からやむを得ずそういう能力を身につけており、その力が彼を救うことになる。「GET OUT」と教えているのだ。決して「いいこと=人種差別に反対する人の善意」によって救われたのではないというのが面白い。

ポリコレ的な価値観を内面化すればするほど、我々は直観力や危機察知能力を弱められているのではないかと思う。

『インビテーション』(2015年)は、私は、意識高い系のド金持ちが、異変を察知していながら「差別する人って思われたくない」という意識によって行動できず、結局災難を避けられなかったお話として観たら面白いよ、と書いたことがある。

あの作品はリベラル意識高い系金持ちを支持する映画なのに、無意識に彼らの弱点を晒してしまったのが面白いし、色んな人種やセクシャリティの人が出ていたが、白人(ヒスパニック含む)>黒人>アジア人の順に露出が少ないし、誰が生き残るのかを考えると、色々おいしいので是非、斜に構えるどころか逆立ちしてご覧いただきたい。

白人の精神が黒人の肉体に宿る…ジョーダン・ピールの自己批評

さて、『ゲット・アウト』はトランプ大統領の政権期、つまりハリウッドが「分断」や「壁」をしきりに強調していた時代に製作され大ヒットを記録、オスカーレースにも食い込んで脚本賞を受賞した。

また社会的な問題を織り込んだ数々のホラー映画を(日本ではいまいち定着しなかったが)ソーシャル・スリラーというサブジャンルとして認識させるきっかけとなった作品でもある。

監督はジョーダン・ピール。白人の母親に裕福な中で育てられ、「黒人の文化」に馴染むことなく育ったという思いは、本作は当然のこと、この次の作品『アス』や『Nope』にも滲んでいるのだと思う。

途中から明らかになるトンデモSF系の設定から見て、本作をお笑いとして撮ることもできただろうし、実際のところ、笑いで人の偏見をさらしものにすることと、人の偏見に直面したときに感じる恐怖や苦痛、苦悩は繋がっているのだろう。

ある人物が『白人の精神が、優れた黒人の肉体を支配するのだ』と言っていてクリスと観客は一同ドン引きするのだが、これは白人の家庭で育てられたピール監督自身に向けられた皮肉なのかもしれない。

そう思ってみると、本作は単純に人種差別を批判しているだけとは思えなくなってきた。

アメリカ社会をはめたピール監督の悪魔の素顔

強いて人種の問題を差し引いて考えると、本作は、「うわべだけで正しくあろう」とする人々、つまり「差別主義者だと言われたくない」と思っている人が「本当に思っていること」と逆のことをしていると突っ込んでいる。ひどく意地悪い。

ポリティカル・コレクトであろうとする人々がうっかり自分自身の差別意識や蔑視や偏見を吐いてしまうという現象は、特にトランプ期に表出しており、ひどく面白い。

トランプ現象はその意味で「悪魔的」な性質を帯びている。トランプ当選に怒るあまりうっかり無意識が露出するのだろう。

アメリカの人々は本作を誉めるしかなかったと思う。本作を貶せば「差別するのかおめえは」とSNSで燃やされる。褒めていれば一応安泰。だから決まったとおりに解釈し、褒めます…批評の世界をそういう風にしてしまった一連の現象を代表する傑作である。

ピール監督が望んだことはそれではないと思うのだが。

私が長らくこの作品ついて書けなかった理由は、「差別するのかおめえは」と言われるのが嫌で、自分の中にタブーを作り出していたからだろう。タブーはそこにあるだけで厄介だ。タブーを作り出しているからこそうっかり本性のよくない部分を「いいこと言った」ていで表出させてしまう。無意識に、本作について深く考えることを避けていた。単なる怠惰である。

訂正は可能なのだろうか。

アメリカの人々は、オバマ期に「いいこと」とされた新しい価値観なり文化を内面化しつつあったとき、トランプ登場以来、「うわべだけのいいこと」なぞ申すでない、本当は貴様もそうは思っておらぬのであろう?と責め苦を受け続けたのだ。

社会をはっきり捉えたソーシャルスリラー作品を見続けることは、外国人の我々にはどうってこと無いが、彼の国では、大真面目にやっていたフシがあり、真面目に考えて支持した人ほど本当は傷も深いだろう。

私はオバマ期に気持ちよくなってしまった側の人間だ。その反省文として映画批評を始めたと言っても過言ではない。だからそれに対する批判やいちゃもんだって聞かないといけない。

いちゃもんに対する己の無意識的な反応、嫌悪や怒り、落ち込みや傷など、ネガティブな感情の中にこそ、真実が隠れている、とホラー映画ファンの私は信じている。

当たり障りのない言葉だけを聴き続けていると、必ず何かを聞き漏らしてしまう。

トランスジェンダー運動のアライになって、人を「差別主義者」呼ばわりして溜飲を下げているような男性たちを見ると、私は自分の過去の姿を見ているような気がして気恥ずかしい。

そして、己が作り出したタブーに手足縛られていたり、妄信して経典読みになってしまっている人を見るといたたまれない。

悪意が無く、善意で行われることにこそ、我々は慎重でなければならないのだと思う。

『ゲット・アウト』は、人種差別批判の映画のようでいて、観客を煙に巻き、心にシミのようなものを残した映画だと思う。民主党支持の白人富裕層を悪役にしており、よく作ったなと思った記憶がある。

何かを見直して、検証するときが来たと自覚するのは苦しいし、痛い。傷つきもする。

しかしながら、そういう過程がどうしようもなく面白いし、見るのを止められない。できたら私もその一部でいたい。

私も頑張って本を出せるようになろう。ほとんどの人には受けないだろうが、読んで「うげっ」となるようなものをお見せできればと願っている。

次回は、最近見直してやっぱり感心したメキシコ映画、イッサ・ロペス監督の『ザ・マミー』を取り上げ、ホラー映画とダークファンタジーについて考えてみたい。

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