LGB「TQ」映画としての『Chandighar Kare Aashiqui』②:「性自認」はシンボルで終わるか

(注:恥ずかしいことにタイトルに誤字があったので修正済:LBG→LGB。最近こういうの多くて心配)
前回の続き。前回はこちら。

現代知識:聞き手は、階級闘争を想定して当事者である発言者に忖度して理解すべし

ところで、「トランスの役をトランスの役者に」という言葉は聞き手の立場や主義主張によって、そこから受け止める意味がまるっきり違っているようだ。

①「もっとトランスの役者に仕事を与えよ」というシンボリックな主張として捉える立場。
②この言葉をもっと原理的に理解する立場。

私は上記のシンボリックな意味①には100%賛同しつつ、それの原理的な意味②(それを実践するってどういうことなのか)について疑問を持ってから3年位過ぎて、ようやく言葉にできるとこまで考えた。

「トランスの役はトランスの役者に」という主張をシンボリックなものとして捉えること(①)には意義があると思う一方、例えば、鈴木みのり氏の言葉を私が「多様なトランスの有り様が、虐げられてきた当事者の言葉や身体による社会的実践として映像に出てくるようにすべきではないか」という主張と理解して文字通りに考えると、「当事者が自らの痛みを語る」映画のみが最適解だと思われる。当事者が他の(架空の)当事者を演じたり、楽しいと思っていることを描くことは表現として不十分か、或いは、まだ描くべき段階ではないのだろう。と、思うのだ。

こういうのは私の屁理屈なんだろうか。

ちなみに2018年にオスカーで『ナチュラル・ウーマン』が外国語映画賞を取り、主演のダニエラ・ベガ(トランス女性)がオスカーの女優賞にノミネートされたのを最後に、オスカーはトランスジェンダーに関する映画を称揚していない。この前後を考えても、2013年の『ダラス・バイヤーズ・クラブ』まで戻らなければならない上、同作では男性の俳優がトランス女性を演じている。

スカーレット・ヨハンソンが「当事者じゃないのに役を演じるな」と批判を浴びた後同作の企画がとん挫したように見えるものの、ホラー映画『Hellraiser』の最新リメイクのように、トランスジェンダーの女優がピンヘッドを演じるという変則技もあったし、オスカーが取り上げずとも、ドラマや短編映画の形で当事者による映画は発信され続けている。つまりは、映像表象としては不十分ながらもいい方に向かっていると言っていいのだろうか。

結局のところ、「トランスの役はトランスの役者に」は聞き手が当事者である発言者に忖度して考えや立場を察しなければならないという、トランスジェンダーのトピックを巡る階級闘争的な状況をよく表している。ツイッターを見ていると、同じ単語を話していても立場の違いによって同じものを見ていない。当然議論になっていないし、議論の余地はもうないトピックなんだろうか。例えば次に取り上げる言葉もそうだ。

性自認概念は、寛容のシンボルなのか、革命のアジェンダなのか。

「性自認概念」の本作における扱いに入る。

本作『Chandighar Kare Aashiqui』では、「身体の性ではなく頭の中の性(=性自認と言い換えていいだろう)が性別を決めるのだ」という医者の説明にマヌが開眼するシーンがある。つまり本作は性自認概念を説明の一つとして支持していると見える。ただし、性自認への言及は、彼にとって「マーンヴィを個別的に理解するための契機の一つ」に留まっており、その思想を理解したかどうか…つまり他のLGBTQ∞全体への理解を深めたかどうかは分からない。

多分マヌと同じく、製作陣は、欧米先進国で論争になっている「性自認をベースにした社会体制の再構築」なんて一切考えていないと思う。インドの大半の人どころか日本人の大半もマヌの理解でいるだろう。「そうか、自分が好きになった人は、本当に女性だったんだ」と納得して終わり。性自認の議論は、この「何かを理解するための契機の一つ」の範囲内で機能する限りは個人対個人の関係の中で他人に優しくなるきっかけとしてのみ働き、社会制度に影響は及ぼさない。

しかしながら、皆が意味もよく分からないまま口にするようになったスローガンは、やがて形を得て、欧米においては現実の社会に登場した。日本でも躊躇いがちながら、すぐそこまで来ている。

先進国の状況と日本の受容具合の違い

日本では「性自認概念を入れたって別に社会は変わらない」と信じている人が性自認概念の導入を支持しているように思う。全ての人が自分の心に従って生きられる世界。そんな「いいことのシンボル」に対し、原理的な意味を問うことは、支持者には「屁理屈」でしかないだろう。いちいち言葉の意味なんか聞く必要もないくらい明らかだと思っている以上、そんな屁理屈をつける「アンチ」は、支持派に言わせれば、性根が邪悪(evil)なのである。

ところで、性自認が性の本質だと本気で信じている人から原則的に質すならば、本作のようにシンボル止まりの性自認概念なんて偽物だ。映画には、性自認が性の本質であり、それを以て社会全体を再構築しなければ根本的差別は解消されないというメッセージがちっとも入っていないではないか。

性自認概念の支持層からそういう批判があってもおかしくないと思うのだが…ここが分からないのだ。そう言ってる人って…いる?支持派の集合意識を探っていくと、「この概念の意味をいちいち突き詰めなくていいから、知識が増えれば人に優しくなり、社会全体の幸福が増し、より善い世界が来ると思って信じて欲しい」という祈りが感じられる。しかしながらそれは、本当にそうならない限りは、虚構の物語だ。自分が信じたい理想の世界でしかなく、ジェニファー・コネリーよろしく、ラビリンスから現実に戻る必要がある。ジェニファーにとっては、現実もラビリンスも等しく存在しているんだから。

そこで、原理的な意味を真面目に考えた人に「性自認概念は社会を根本から変えてしまう」と言われると、「は?何言ってんの、世界は今までと同じだよ。今まで差別されていた人たちの権利が回復されるだけ」と支持派は激昂する。夢を壊してくれるなということだろう。そして、そういう人を「アンチ」と雑に括っている。

多分一生話が通じない。この概念に関しては、どっちの側も個別的に見ると発信の仕方に問題があると思うが、もう手遅れなのだろう。

その善性を疑うべからず=信仰

日本では『Chandighar Kare Aashiqui』的な理解、原理主義から見れば「偽物」の理解によってのみこの言葉が流通していく。ならば、日本の制度は特にインパクトが無いはずだ。ちょっと人に優しくなれるだけ。「アンチ」は騒ぐ必要はない…(実際途中からこう言い始めた支持派も見た)。

今我々は何を言い争っているのだろう。我々は、存在すらしない性自認という空っぽな概念を巡って延々と泥を投げつけ合っているだけなのだろうか。

人間は定期的に神様かテクノロジーか思想の何か人知を超えたものが与えてくれる夢を無条件に信じたいときがあるらしい。それは人間らしいと思う。

ところで社会言語学者の田中克彦は、言葉というものには、その単語以上に物事を考えることができなくさせる働きがあると言っていたように思う。

その魔法の力を使うと、性自認という概念について疑問は消える。「いいこと」或いは「悪いこと」なのだ。アタマの中で、現実は心地よく取捨選択されて、それぞれ「いいこと」と「悪いこと」を補強していく。

私はゲイなので言いたい。ゲイに対するヘイトクライムについて強い感受性を持つはずのゲイが、「性犯罪は起きてからでは遅い」という懸念に共感できず、「性犯罪の懸念という言葉で誤魔化された差別的な意見を持ってはいけない」と繰り返すのを見ていると、本当に心苦しい。

他方で、明治政府の頃に日本を観察したドイツ人ベルツの残した大日本帝国憲法発布に関する有名な批評(一般民衆の様子を「お祭り騒ぎだが、誰も憲法の内容を知らない」(Wikipedia引用)は、未だに日本社会の批評として有効なのだろう。私は、日本の人民は憲法の内容を知らされていなかったのではなくて、知ろうとしなかった、というのが真相ではないかと疑っている。

我々の「戦後」

殆どの人はシンボリックな意味でしかこの概念を捉えていない中で、推進側の研究者の思考を憶測すると、「そもそも私たちは「現状の延長」に興味は無く、いつか来る理想の世界を眼差している。性自認概念により現実に何が起こるか?いいことに決まってるじゃないですか。まだそうなっていませんが」とでも思っているのかな…「ノーディベート」を信条としている以上、何考えてるか全然分からないのだ。

それの対極にある、「諸外国ではこういうことが起きていますが、日本はどうなるんですか」という切迫した、実感から湧いてくる問いに対しては、そんな問いはヘイトに根差しているのだと遮りつつも、段々不安になってきたのか、「現実には別の法律や規定があるんだから同じことは起こらないから心配しないように」と煙に巻こうとしている様子も見えて来た。

この過程で誰がどんなことを言ったか、みんな忘れないことだろう。私は、LGBTの端くれとして懸念しているが、この論争の後、我々の「戦後」はどんな風景になるのだろう。

そう言っている間にLGBT理解増進法修正案が委員会で可決

自民党案が審議されるらしいという位しか興味を持っていなかったのだが、結局維新の会と国民民主党の要望を入れた形で委員会を通過したらしい。

維新・国民から要望を受けて修正したのは次の点だ。
1)「保護者の理解と協力を得て行う心身の発達に応じた教育」の追加
2)「すべての国民が安心して生活することができるよう留意する指針の策定」を新設
3)「民間の団体等の自発的な活動の促進」の削除
4)「性同一性」から「ジェンダーアイデンティティ」に変更

https://news.yahoo.co.jp/articles/a4ce2c4a7b77e63df12182cf92fa67403b8968f7

4)に注目。「性同一性」は「性自認」という言葉と「ジェンダーアイデンティティ」と同義だという話も聞いたし、ジェンダーアイデンティティの訳語が性自認であり性同一性だから…一体何をどうしたというのか…色々な妥協の末のこの法案だったのだと思うけど、結局はみんなこの概念を入れることが社会にどういうインパクトを与えるのかは全然分からない。法案も読んでみたけど、結局言葉を入れることが目的の出来レースだったかとも思う。でもこれに思いを懸けて来た人にとっては、1)と2)について非難轟轟のよう。3)が引っかかっている人もいるようだ(「企業や自治体が積極的にLGBTQ支援を進めているにもかかわらず、活動が制限されてしまうのは悲しく、怒りを覚える」)。

1)について、保護者が理解しないのに子供にどうやってそれを教えれば…という件。日本では、まともに性教育もできてなければ未だにバカげた校則があるところから見て個人主義や人権もまともに教えていないんじゃないか。今は違うのかもしれないけど、義務教育の担任の頭の中がまっかっかだと、階級差別については教えてくれるけど、人権については教えてくれないんだよね。人権の問題は階級差別が全てではないでしょう。どうも今の世界では階級差別のことしか扱わないようだけど。

2)については、この言葉が入っても別に変じゃないと思う。国民全員に利益が無いんだったら法律作る意味ない。これに反発する発想としては「国民全体の利益にならないことでもマジョリティなんだからもっとわきまえて、それを受け入れよ」という革命のエチュードなのだろうとは思う。その気持ちは分かるのよ。「マジョリティ」=敵、我々=正義という階級闘争史観で生きて自分の主体を確立して来て、大学という場所で権威を確立して来た人なんだろうから。でも法律は、「国」=体制の庇護なのであるし、まして大学の教員ならば体制に組み込まれている自分という矛盾を、ご本人の中でどう解消しているのかとは疑問に思っちゃう。これも、①シンボリックな意味は理解できるけど、②言葉の意味とか論理には疑問を感じる。

3)は…あんまり大きな声で言わない方がいいと思う。

まだ法案成立とまではなっていないので、時々見ておきたい。

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