竹美書評:知的暴力が人を導く(青井こうき『ビリガマ』)
新宿二丁目のミックスバー『A day in the life』の店長、こうきさんが二冊目の本を出した。
前作『ぼくはかいぶつになりたくないのに』とはまた一味違う角度から描かれたエッセイ漫画。
その名も『ビリガマ』。
身体も顔も内面も清潔感のあるゲイだけがもてはやされる中で
カマ・売り専・乱交パーティ・発展場・勃起・底辺・貧乏・虐待
等の露骨な単語がいっぱいの本書。笑いながらも少し胸が痛み、その鋭い知性に戦慄した。
底辺って!!
タイトルの「ビリガマ」は、学歴もなく、社会的地位も無く、高収入でもなく、まして家柄もよくない、いわば「底辺のゲイ」という意味。
最初のエピソードから強烈だ。同世代のゲイの集まりに行ってみたら、学歴でマウントをとられてしまう(「ゲイの学歴マウント」)!
彼氏と一緒に宅飲みに行けば、「お前彼氏じゃないって設定でよろしく」と言われ、ふと気がつくと彼氏は男たち(複数)に手を出されており、それを見たこうきさんは…(「ホムパのUMA」)。
ゲイ社会の中で次々に理不尽で不公平なことに遭遇し、それに巻き込まれ、イライラしたり悲しんだり、傷ついたりたまにムラムラしたりするこうきさん。
でも、どんなに理不尽な目に遭っても自分を曲げない。彼の知性がそれを許さないみたいだ。挙げ句哲学してしまう(「なぜ売り専でアウフヘーベンできるのか」)。
彼は、幸か不幸か、自分の気持ちさえも突き放して物事を見るという才能を持っている。知的腕力が強い、というかもはや知的暴力と言ってもいいかもしれない。
「タテマエ」をぶち壊す絵
強すぎる知性は、人に恐怖を与える。彼の武器は絵だが、これがちょっと怖いときがある。
アメリカのホラー映画なら、「観客が、子供が一心不乱にクレヨンで描いている絵を見てドン引きするのと同時に、善良なその子のご両親(金持ち)がわが子の蛮行を知り悲鳴を上げる」シーンに使われそうな、怖い作品がいくつもある。
ぜひ、『A day in the life』に行って、そのイラストの数々をご覧になってほしい。
こうきさんの絵は大人が描く絵だ。しかし、そこに出ている、無意識のような、知性のような不思議で不穏な絵から目が離せなくなる。
さて、我が子の恐ろしさに気がついたご両親は憔悴の果てに悪魔祓いを依頼するかもしれない。あれは私の子じゃありません。『エクソシスト』でクリスがカラス神父にそう告げたように。
こうきさんの一連の表現は、上記のようなアメリカのホラー映画のテンプレートに疑問を挟ませる。
その子は悪魔が憑いたのではなくて、もともとそういう子なんじゃないか?
悪魔祓いはあくまで(ダジャレ)「タテマエ」だ。
悪魔祓いが済むと、我々の愛と信仰、神父の献身により、悪魔を祓った!と親や周囲の大人たちは言うだろう。
でも、子供の中にある、親から見て訳の分からないもの、理解不能なもの、不都合なもの、不謹慎なもの…を無かったことにしたいというのが「ホンネ」だ。
もしも、熱心な悪魔祓いにも関わらず、その子供が依然として大人をぎくりとさせる『余計な』一言を言ってたら?また悪魔祓いを呼ぶのだろうか。映画の続編としてはいいわけだが…。
悪魔は人の建前をぶち壊し、本音を吐かせるという習性がある。皆が言わない疑問を口にして、周囲の大人をぎくりとさせる、ということは悪魔的なことなのだ。
『ビリガマ』のお母さまとのエピソード(「祖母への恩返し」「僕のセミと弟のセミ」)を読んでいて思った。
母と息子という関係性を消去して漫画の中の二人を見ていると、子供の何気ない言動によって次々に「タテマエ」(本人が信じ込んでいる世界)にひびを入れられた大人の混乱と当惑、不快感が読める。そして多分、自分が見たくない「ホンネ」と対峙させられる恐怖もうっすら紙面に浮かび上がってくる。
こうきさんの頭脳は、鋭く自分の体験や周りの人間を切り取って行く。自分をひどく苦しめた相手を客観的に描写できるものだろうか。
家族ホラーが大好物な私としてはこの場面が看過できないのである。
彼は様々な虐めに遭っており、そのエピソード(そうじゃないエピソードが少ない…)は読んでいて胸が痛む。
しかし、みんな、彼の「狂気」と言ってもいい知性を無意識に察知し、攻撃性をむき出しにしてしまったのでは…そんな気もしてしまう。
「狂気」とはクリエイティブであるということだ、とかつて恩師に教えられた。こうきさんの場合、皆が見ようとしないものが見え過ぎてしまう「狂気」なのだと思われる。
こうきさんはそんなものを持って生まれてしまったのか…と私は不謹慎にも勝手にワクワクしてしまう。
子供時代にご用心!(私の体験談で閑話休題)
ところで、こうきさんが小学校時代にクラスの中で唯一口をきいてくれた男子同級生の話は、予定調和を許さない、ぎくりとさせられる話だった(「消えた正一くん」)。
繰り返すが、本書にはこうきさんの体験した虐めの描写が何度も出て来る。胸が痛むのだが、私は少し違う刺さり方をしている。
私はいじめをした体験はないが、それを傍観していた記憶はある。
小学校の頃、同じクラス内のいじめに気がつかなかった。それだけでなく、「いつも喧嘩してて、あの人達バカねえ」とさえ思ってバカにしていた。
一方、自分は学級会でいじめはいけないみたいなことを率先して言ったり、熱血タイプの担任教師に出す日記に社会正義についてのあつい思いをつづったりしたものだ。
いい気になっていた。まさか、この私の目の前でいじめがあったのに気がつけないなんて、あってはならないことだった。
クラス内でいじめがあったとなぜ分かったか。
その頃、私のクラスの熱血担任教師はしきりに「今、このクラスには大きな問題があるんじゃないか」と繰り返しクラス全体に問いかけていた。
そこで正解を言えた子たちもいたが、私は答えられなかった。一種の思想検査に合格できなかったのである。何だろう、何だろう、どうして分からないのだろう。この「先生に気に入られているはずの自分」が?戦争の本を読んで、「加害国の日本」について、とか、NHK海外ドキュメンタリーを観たら、各国の経済格差の問題を逐一日記で報告するようなこの自分が?
焦った。
そして審判の日は来た。
ある日の学級会で、先生から怒りを抑えた声で審判を下す。遂に正解が発表された。知りたくないが知りたい。自分が正解に近づいていたことを確かめたい。
熱血は告げた。
同じクラスのN君が、別のN君とD君から繰り返し繰り返し殴られたりして(でもN君は力が強く、いつもやり返していたし、ドッヂボールで活躍して私より男子ランクは上だったはず…)いたのに誰も止めなかったではないか、おまいらはそれでも同じクラスの人間か…云々。
極めつけは「このクラスは腐っているのです」。
事実関係を告げられたとき、恥ずかしくて先生の顔を直視できなかった。気のせいか、私の方を睨んでいた気がする。
いや、気のせいではない。「このクラスは腐っているのです」というのは、私が日記にしたためた熱い思いの一節だ。
睨むだろう、先生としては。
あの頃…ラガーマンでかっこよかったK先生のこと、私、多分好きだったんだな。好かれたかったんだろう。お気に入りでありたかっただろう。
でもがっかりさせただけ。
もし私の同級生にこうきさんのような人がいたら、無意識に私の様子を切りとって、はい、今のあなたはこれです、と言葉や質問で思い知らせてくれただろう。
私もその子をいじめたかもしれない。そんな最低な自分を胸に焼き付けたかもしれない。
いや、反対に、自分の記憶から抹消したかもしれない。しかしいじめられた方は忘れないものだ(「あの時の復讐」)。
『三体』としてのこうきさん(の知性)
『ビリガマ』で落ち着かない気持ちになってしまった。
己の都合の悪い部分を決して忘れるでないぞ、忘れたときには、また戻ってきて貴様を上から見下ろしてやるぞ…まさかあなたは…?
ビリ?とんでもない、はるか上の世界から我々を観察している概念のような、高次元の知性…『三体』に近いその知性。
これからも、予定調和的で、怠けていたい我々を冷静に観察する『目』でいてください。私は恐れながらも支持します。『三体』の到来を待ち望む人々のように。