ホラー映画から見る現代社会⑤ 移民の見る悪夢
最近ひどく疲れている気がして、なぜだろうかと考えていたが、理由をこう仮定してみた。
あらゆることが思ったとおりに進まない上、一人でガス抜きできるほど私がインドに馴染みきってもいない中、全てを諦めてしまい、自分が消えてしまいそうな気持ちになっていたのだと。
これは恐らく、さほど好きでもない異郷の地に移民してしまった人たちの気持ちの欠片を理解する端緒となるのではないだろうか。
今回は移民を描いたホラーを見てみたい。
取り上げる作品
『メイド 冥土』 (DVD化されているものの日本での配信はない模様)
『His House』 Netflix ※日本で観た。
『Nanny』 Amazon prime ※日本語字幕があるので日本でも視聴可能のはず。最近観た映画メモでも取り上げた。
移民の悪夢:異郷/異教の恐怖『メイド 冥土』
シンガポール/2005年
あらすじ
シンガポールで中華系の旧家でメイドとして働くフィリピン人女性のロサ。あるとき、「お盆」の風習を知らずにルールを破ってしまったために、次々に怪異に見舞われることになる。しかしながら、本当に恐ろしいのは旧家の人々の意図であった…。
本作は冥婚と呼ばれる中国の風習(日本や世界中に同じようなものはある模様)に関する映画。非婚のまま死んだ男女を「あの世で」一緒にすることで、この世への未練を無くし、幽霊として現世に残り、生者に祟ることを避けるという趣旨なのだろう。
尚、朝鮮では、非婚・処女のまま死んだ女の霊(孫閣氏)が最も恐れられていると村山智順の『朝鮮の鬼神』に記されている。なぜそんなに他人が女のことを決めつけるのかという現代的な指摘は一旦置いておき、『メイド』においてロサが体験することが、移民にとって最も恐ろしいことなのだと考えると分かる気がしてくる。
外国人メイドに対するひどい扱いについてはニュースにもなることがあるし、「差別」の脈絡では理解できるが、ロサが主観的に体験することの中で最も印象的だったのは、カソリックであるロサがいかに神に祈っても全く助けてくれなかったという点である。
ちなみに友達のインドネシア人メイド(イスラム教徒)も出て来るが、やはり、中華系の怨霊に勝てない(この憑依のシーンは一番恐ろしい)。
ところ変われば品変わる、郷に入っては郷に従え、という原則はそういうことなのだ。習慣や価値観の違いは、移民・難民がホスト国で直面する最も大きな試練なのである。
「郷に入っては郷に従え」と我々は(私も含め)日本に定着したい外国人に対して説得しなければならないことなのだとも思うが、私自身がインドで体験し、また日本でも彼氏とコロナ缶詰状態で暮らしたストレス満載の日々を思い出すと、そう簡単でもないという気もする。
如何にそれが難しいかということを、日本とインドの両方で体験している私としては、声を大にして言いたい。
だからこそ、「差別かどうか」という正義の物差しを越えて、もっと色んな物差しを用いて考える必要があるのだとも。
難民を追いかけて来る過去の亡霊:『HIS HOUSE』
2020年、イギリス・アメリカ合作
あらすじ
南スーダン難民のボルとリアルは娘を連れてイギリスへ逃れて来た。慣れない生活に二人のストレスは最高潮に高まる。そんなとき、家の中に何者かの気配を感じるようになる。
ただでさえ生活に疲れているところへ、怪異がやって来て更に引っ掻き回す、という展開のホラーはよくある流れである(ニーナ・セネス『ホラー映画の科学』でも紹介されている)が、彼らは何を怖れているのかについての物語である。
道に出れば、イギリス生まれのアフリカ系の子供達からバカにされるのだ!何ということだろう、人間というのは細かい差異によってこうも分断されているのだ!!
また、何とかイギリス式に馴染んで見せようともする。しかしながら怪異はローカルなものと過去と後悔や罪など全部を引き連れて、二人の前で百鬼夜行を繰り返して責め立てる。
生きるため、故郷を捨てるために下した「止むにやまれぬ罪」は、概ねその人がインフォーマル・セクターの意識で生きてきたということを示唆している。インフォーマル・セクタ―の割合が大半を占めるような社会、つまり「ちゃんとしていない」社会において、「フォーマル」に正式にビザを得て渡航する移民、私のような出稼ぎ民や、『メイド』のロサとは全然ちがう意識でいるのだ。
我々はしばしば、移民・難民=かわいそうな保護されるべき人々だと考えがちだし、「いいね」したがる。『HIS HOUSE』も、彼らは「真面目にイギリスに同化したがりつつ迷惑かけない範囲で自分の文化を守りたい人々」として表象されている。皆がそうならいいのだ。
しかし、そうできない、自国のやり方(しかもインフォーマル・慣習法のやり方)を通したがる人も多い。人がいきなり異国のフォーマルセクターに移動することはひどく難しい。それは「入れてくれない」のではなくて、「入り方が分からない」とか「そもそも知らない、興味が無い」のかもしれない。
「同化」という厳しい体験が無ければできないことなのだ。アメリカはそうして出来上がって来た。その「同化」を差別として退けるのであれば、やはり、『シビル・ウォー』のような作品が出て来るのだろう。
過去や故郷を捨てた自分を「訂正」する:Nanny
あらすじは既に書いたが、繰り返すと…
本作の感想を書いた後、もう少し考えさせられた。
以下は半ばネタバレなので飛ばしてくださってもいい。
過去を切り捨て、先に進ませる人魚の精霊
アイシャは息子を呼び寄せるために全てをかけてでも子守の仕事を続ける必要があるが、同時に残業代が支払われなかったり、雇い主の夫からセクハラをされたりして全く楽ではない。
作中、アイシャにとってひどく苦しくつらい試練が訪れる。映画に登場する人魚の精霊は、そのことを知って彼女に何度かサインを送っていたのだ。彼女を怖がらせるためではなく、むしろ、その試練を乗り越えてでもあなたは幸せを諦めてはならないし、生きねばならない、と励ましているのだった。
彼女はその試練を通じ、故郷のセネガルとの絆を過去のものにし、新たにホスト国の人間たちとの人生を愛するのか、苦しみの中であきらめて挫折するのか、非常に厳しい二者択一を迫られている。
不公平だ。しかし、自分の選んだことの結果でもあるのだ。
私は本作が、そこを誤魔化さなかったこと、つまり、「国」というものさえ無ければ、とか、ホスト国の差別主義者は全員退治されればいい(ホラーだからできる表現)、という風にはいかなかったこと。ブラムハウス印の作品だが、もはや『ゲット・アウト』は遥か昔のことなのである。
なぜならアイシャの夢は、アメリカで息子と平和に暮らすことなのだから。どんなにつらくても、自国のインフォーマル・セクターのことを心配しながら生きるよりはいい。彼女は労働ビザを持っており、故国のフォーマルセクターとインフォーマル・セクタ―の境目もはっきり理解している。
難民とは違うのである。
こういう風に理解するようになったのも、己がインドで労働移民(出稼ぎ)として生きていることと、インフォーマル・セクタ―の考え方を端々で見せてくれた彼氏との生活を続けて来たからだろう。
移民は大変だ。
毎日意味もなく疲れる。自分というものが少しずつ消えていくようにも思う。自信も無く、諦めてばかり、故郷の味が恋しくてならないし、母語で思い切り話し、笑い合いたい。でもできないのだ。私のヒンディー語はよちよち歩きレベルなんだから。
カップルの関係に期待されるものも全く異質、しかし人間としては同じなので、嫌な形で自分の欲求や本音を暴かれているような気もして(本当はお前も同じことしたいくせに我慢してるから、我慢しない奴に腹が立つのだという原則)、そのすべてに疲れ果てた。
しかし…過去にあったいいことも悪いことも断ち切りつつ、自分の「過去」として受け止め、自分という連続性を繋いでいくこと…東浩紀のいう「訂正」を続けられるようにすること、それしかないのではなかろうか。
ホラーの物語は、やはり、怪異という邪魔者の闖入により、自分の中で色々なものがかく乱される中で、「自分はどうなりたいのか」を何とか探り、過去の自分を未来の自分とつなげるために現在を生きる…そういうことも教えているのだと思う。
終わりに
以前インドのインフォーマル・セクターの見る夢が任侠映画になりやすいことを考えた。
脱法行為違法行為をすることが「あたりまえ」で、法を守る者なんかいないんだ、という考えが強ければ強い程、ホスト国でどのような風に煽られ、何の鉄砲玉に使われてしまっているか。これは今先進国で表面化していることだ。
日本ももはや例外ではない。
インドに来る前、いや、今の彼氏に出会う前は想像もしなかったことだが、脱法的(恐らく違法行為も含む)な行為をしてホスト国にしがみついている人は、祖国でもインフォーマル・セクター的な考え方でいたか(私はこの可能性が高いと思う)、或は、ホスト国で周囲の同胞や善意の日本人からインフォーマルな考え方を身に着けたのであろう。
そもそも自国では色んなことが「ちゃんとしてない」から「ちゃんとしてそう」な国に移動してくるのである。それが難民だ。他人に構う余裕なんかない。
余裕のないストレスフルな状態に置かれた移民・難民に一方的に寄り添って憑依することは…つまり、彼らの活動を支援したり肯定するということは、却って彼らから「日本社会で幸せになる」チャンスを奪っているのではないか…私はクルド人問題に関するニュースを見るといつも思う。
誰が彼らを煽り、誰がその状況で「得をする」のか。それは無自覚の共犯関係にある。
一緒に暮らすホスト国の人間としての意見は、多くの場合、異文化交流のはらわただ。「不快、汚い、臭い、うるさい、身勝手、乱暴、無礼」というような言葉を通じて表出する。それを「差別だ」として封じる人こそ、却って難民≒移民として入り込んで来た人達の幸せを全く考えない人達なのではあるまいか。
そして彼らを煽って暴れさせ、逮捕させ、やがて町に火をつけて回らせ、革命が起こり政治が為される…それが彼らが難民の中に見ている幻想なのだろう。
一人一人の人生に寄り添う人ならば、徒党を組んで警察に楯突いたりするのはホスト国住民である自分でやるはずだ。彼らを守るならば。
しかし、不安定な立場にある当事者にデモをやらせている時点で、彼らを革命の道具としか見ていないのは明白だ。
たった一つでも日本の外国人コミュニティがインフォーマル化してしまったとき、遠くツイッター等で、移民難民の言動を100%支持して「いいね」していたような人たちは、手のひらを返して移民・難民排斥に走るだろう。
思うに、ブラムハウス社は、そのような「かわいそうな人達」への共感を正義の問題と結びつけた作品を量産し、王座の地位を確立した。しかし今や「手のひらを反す」人々を見て、その方針を訂正したいのではないだろうか。社会の葛藤を劇場化し、皆から鑑賞料をせしめた同社の在り様は、映画が大好きな人間としては、何とも言えない気持ちになる。
それこそ、移民・難民を「日本で一緒に暮らす人」として捉えず、革命の手段としか思っていない扇動者の思うつぼである。
日本がそうならないことを祈る。
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