ホラー映画から見る現代社会③ 弱者は「外」を恐れ「内」に籠る
ホラー映画で私がとても気に入っている部分は『隠しておきたいほど恐れている秘密』とその暴露のプロセスだ。自らの心に蓋をし、鍵をかけて鍵を隠したり(なぜか捨てない)、井戸を埋めたり、扉を塗り込んで壁を作ることで、あまりに苦しく恐ろしい過去を振り返らないようにする。
封印した本人はそれを忘れることができず絶えず暴かれることを恐れる。何かを恐れるとき、人は弱くなる。過去は幽霊だから、人に憑いて心を弱らせ、「弱者」にしてしまうことがある。ホラーというのは、人をとことん追い詰めて弱者にしてしまう物語だと言えるし、反対に、強者かと思われたキャラクターが過去の暴露によって脆くも崩れ去るとき、我々は「強者の滅亡」物語に歓喜する。
少し前にこんなことを考えた。
この言葉は、トランスジェンダーというあり方とノンバイナリーは理論的に矛盾するし、トランスジェンダーの定義すら人によって異なっている状況で、その人達同士≒内部では全く矛盾を感じないまま同居≒共闘できるという状況から本作の主役グレースを思い出したのだった。彼女は徹底して「外」を恐れ、「内」の中で恐怖と格闘するが、やがて「外」の侵入を防ぎきれなくなったとき、グレースはどう生きたのだろうか。
自分で気がついちゃった人、『アザーズ』のグレース
映画『アザーズ』は、2001年製作公開で、監督はスペインのアレハンドロ・アメナバル、主演はニコール・キッドマンの英語の作品。『ムーラン・ルージュ!』の主演演技を絶賛された直後の作品で、薄暗い屋敷をバックにニコキの引きつった顔だけで恐怖を表現し物語を引っ張った。彼女のベストホラー演技を見られる映画。
お屋敷に子供二人と母親のグレースが3人で住んでいる。ある朝使用人が全員いなくなっていた。そこへ3人の男女が訪れ、屋敷の使用人になりたいと申し出る。使用人の募集広告を出した覚えがないグレースは3人を警戒する。ちょうどそんなとき、屋敷には何者かの気配が現れ、子供達とグレースは怯え始める。怯える3人をよそに、使用人たちは落ち着き払っているのだった。やがて「侵入者」はその姿を現すと…。
子供達のうち、弟の方は怯え切っている。他方姉の方はお屋敷で何があったのかをある程度知っているが故に、弟のみならず、ある秘密を抱えたグレースにとって、悪魔的な存在としてたち現れてくるのが面白い。
お屋敷という「内」と、霧に包まれた謎の「外」
あるときグレースはお屋敷を出て外に出ようとするのだが、霧に阻まれて出ていくことができず、仕方なく屋敷に帰ってくる。その場面では、まるで「外」から彼女を圧迫しているように見せているが、実のところ彼女は「内」に秘密を隠しておきたいし、無かったことにしてしまいたい。何なら自分の秘密が分かってしまうかもしれない「外」になんか出たくないのだ。
沖田瑞穂の著書『怖い家』では、家という場所は「境界」を示す場所であると指摘されている。本作でも「外」との接点は屋敷の中にある。
ラスト近く、グレースと共に観客の視点が反転し、これまで「内」と見えていたグレースの屋敷の世界とは観客にとっての異界=外だったことが判明する。同時にそれはグレースにとっては「自分たちの方が既に死んでおり、幽霊すなわちOthers=他者だったのだ!」と観念する瞬間だ。しかし、グレースにとって「外」の存在の了解は恐怖の終わりを意味した。映画の最初で言及された「煉獄」のような場所に留められたグレースは、不安を感じながらも異界で生きていく決意を固め、新しい勇気ある人間に生まれ変わったように見える。
監督のアレハンドロ・アメナバルの作品は、強い反カソリック的主張と併せて、今見ている世界を脱出して、より広い世界に飛び出す人々の葛藤をよく描いていると思う。自分の殻を破って外に出る…と言えば、あたかも人の成長にとって必須の通過点であるかのようにも聞こえる。しかし、アメナバルは、『アザーズ』や『バニラ・スカイ』等の作品の中で、そのプロセスは、親しい他人を疑い、自分の今まで生きて来た世界を根本から疑い、自分自身を疑い、全てを失ってしまうような激しい体験として見せている。
ところで、自分の見ている世界が全てではない、という観点から言うなら、アメナバル映画はシャマラン映画に似ているところもある。シャマラン映画では、「上位の世界」を見た者は自分の生きる意味=救いを見出す。最近私の周りでも比較的シャマラン的世界観(俯瞰的世界観)のスピリチュアルな意見を口にする人が増えた気がする。これはシャマラン映画に我々の世界が近づいたということかとも思う。
しかし、対するアメナバルの映画では、主人公が例えそれまでの世界≒自分を疑って、殻をぶち破って「外」に出て来たからと言って、その新しい世界がそれまでより上位の世界ということは感じられないし、救済は保証されていない。結局生きていく不安から逃れることはできないのだ。
アメナバルの描いたグレースは最後、救われているわけではない。新しい世界に適応しなければならないのだから、彼女の旅は始まったばかりだ。
「外の言葉」と「内の言葉」 神名龍子『トランスジェンダーの原理』のヒント
ところで、この、「外」を完全に遮断して、「内」の言葉だけで世界を構築し、時折訪れる「外」の到来を恐怖・嫌悪・憎悪しているように見える人々がいる。自分もLGBT∞の端くれとして、LGBT∞の「内」の言葉で満足していた時期も当然ある。しかしながら、私が目指して失敗した「思想転向」とは、結局のところ「外」の存在に気づき、それと繋がりを作って付き合っていくというプロセスだったと思う。
自身も性的少数者である哲学者、神名龍子は自著『トランスジェンダーの原理』の中でこう書いている。
私は本書をLGBT∞運動への批判や提言として読んでいるところだが、「内」だけの言葉の鍛錬で「外の人」を納得させるなんて企図は不可能で無意味なんだという主張は、実のところホラー映画に時折現れる洞察でもある。
『アザーズ』のグレースは、聖書とお屋敷≒「自分の知っていること」という閉じられた「内」の世界を生き、「内」を支える自分の嘘を暴きかねない「外」の世界を拒否しようとした。しかし常に実在する「外」は、そんなグレースの企図を無目的にぶち壊そうとする。それは、グレースの視点から観れば純然たるホラーであるし、「外」の存在は「侵入者」だ。侵入者は排除せねばならない。グレースは「私は夫の不在中、子供たちを守らねばならない…」という虚構を自ら作り出し、必死に縋り付いた。しかし虚構には無理がある上、グレース自身も真の意味で解放されない。
「内」の秩序を守るために、特定の意見が極端に抑圧されたり、その原理にそぐわないものや、矛盾点をすべて否定する、現在のLGBT∞運動は、グレースの子供に対する非常な厳格さそのものと見える。外に目を向けることを極端に恐れているから、窓をカーテンで覆い、外も見えず、家の中もはっきり分からないようになっている。
「外」に出てもなお続く煉獄
もはや「外」に出てしまった私から見て、「内」に留まる人々は、外の言葉には疑念を抱かせる可能性があるのを何となく分かっているのだろう。もし疑念が広がったら「内」の言葉=秩序は壊れてしまうかもしれない。そんなことは許されない。これは必ずしも悪意によって行われているのではなく、義理人情や、愛情や、罪悪感からくる贖罪など…グレースにとっての子供たちがそうであるように、大事な価値に紐づいているのだと思う。そうなればヒステリックにもなるだろう。
しかし、「外」の言葉を極端に嫌い、「内」の言葉だけで自分たちを語る態度を変えない限り、本当には自分の「苦しさ」と向き合えないし、「何かよく分からない抑圧」から解放されることはない。「外」と話すことは、最初は怖いし、痛い(傷つく)だろうが、皆が「自分たちに疑念を持つこと」よりもっと恐れている「何かよくわからない抑圧」の正体を少しずつ見せてくれるはずだ。もしかしたら、幽霊の正体見たり枯れ尾花かもしれない。或いは、それまで「味方」だと思っていた存在が自分を「抑圧」していると気がついてしまうかもしれない。他にも色々なことに気がつくだろう。それは何より、とても疲れることだし、知的体力も要するから誰でもそうできるとも思わない。
アメナバルの世界では、「外」の世界はどこまでもどこまでも広がっているように見え、そこに「救い」や「答え」があるとは描いていない。もっとひどい真実を知ってしまうかもしれない。でも、生きてるこの世界に疑問を持ったなら、「内」に留まっていることはできない。
「外」の世界との大変な接触を超えない限り、人はずっと同じ、暗いお屋敷に閉じ込められたまま、何かに怯え続け、敵意をむき出しにし、自分に疑念を抱かせる存在全てに害を及ぼしつづけるであろう。それは終わりなき煉獄だ。それなりに心に擦り傷を作りながら「内」から「外」を知った私の目にはいかにも物悲しく映る。なぜなら、私もまた、前とは別の煉獄の家窓から「外」を覗き、一生けん命に何かを見つけようとしているだけだからである。未だ「外」は霧の中に沈んでいる。ずっとそうなのだろう。
「本当は外なんてないのかも」
まどかマギカの暁美ほむらの言葉を思い出すのである。
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