あの日きいたあの歌はなんて歌だったんだろう?
理由もなく、ずっと忘れないでいる歌がある。
でも、曲名すらわからない。
夕方、小学校から帰って来た後、さっき学校でお別れしたはずの教頭先生が家にやって来た。
当時の農村部では、先生が野菜や山菜などを貰いに家に来たりする事は普通だった。
もちろん、貰いにおいでと親が先生に言うから来るのだが。
そして、ほとんどの場合、宴会が始まる。
その日は、なぜか両親が不在の日だったので、祖父が教頭先生の相手をしていた。
一升瓶をテーブルの上にドンッと置いて、外がすっかり暗くなっても2人で飲み続けていた。
僕は居間を占領されて、夕食の後にテレビが観られないのが苦痛で仕方なかった。
教頭先生はいつ帰ってくれるんだろうと思いながら、少し離れた場所から眺めた。
しかし、そんな願いも虚しく、上機嫌の教頭はついに歌いだした。
カラオケなんてもちろん無いから、アカペラだ。
祖父は、これまた上機嫌で「よっ!」とか「はっ!」とか声をかけながら手拍子している。
僕は完全に絶望した。
こりゃダメだ…帰りそうもない…。
「おい!カセット持ってこい!録音するぞ!」
突然、祖父が大きな声で呼びかけた。
「カセット」とはラジカセの事だ。
歌の好きな祖父は自分の歌をラジカセで録音して聞かせてくれたりした事があった。
幼い僕はその「録音」というシステムが不思議で喜んでた記憶がある。
もうすっかり飽きてしまったが、祖父は孫と「録音」して遊ぶために、高そうなマイクまで購入した。
そのマイクと重たいラジカセを居間へ運ぶ。
「お~!ちゃんと飯くったかぁ!」
マイクを手渡すと、酔っぱらってる教頭が頭をグシャグシャなでる。
「よし!教頭!録音するから、もっぺん歌え!」
祖父が命令すると、教頭はマイクを握って立ち上がる。
「よし!録音!」
大きな声で言った祖父と目が合って、僕はすかさず録音ボタンを押す。
腕も脚もガバっと広げて、踊りながら教頭は歌い出した。
負けて泣くなら
やめてっけれ やめてけれ
汗っこ流して 涙っこ流して
負けて泣くなら
やめてっけれ やめてけれ
民謡と言うか、盆踊りと言うべきか、そんな感じのメロディだった。
教頭はその歌を、もう2回くらい歌って、そしてまだまだ飲んでた。
録音係の任務を終えた僕は、風呂に入り、テレビをあきらめて寝た。
その日録音したものを祖父が後日聴いたのかどうかはわからない。
わからないが、たぶん聴いてないと思う。
でも、僕は聴いた。
なぜだろう?
酔っぱらって歌ってる教頭がなんだか面白かったのは確かだ。
でも、何ヶ月経っても、何回も聴いた。
たぶん、兄弟喧嘩があったり、理不尽に親に叱られたと感じたりした時に聴いたように記憶している。
誰もいない仏間で、ひとりで聴いた。
一体何の歌なのか、何ていう曲なのか、一切わからない。
ひねくれ癖のある子供だった僕は、教頭に直接聞く事はしなかった。
この「教頭の歌」を何十年経った今でも忘れる事がない。
不思議だ。
謎だ。
どうしてなんだ?
自分でも全くわからない。
ここまで忘れずに来たんだから、きっと死ぬまで忘れない記憶のひとつになってしまったんだろう。
なぜか、この歌が…。
人間の記憶って不思議だなと、しみじみ思う。