『作者のひみつ(仮)』2章
2章 著作権と作者
著作権の歴史
産業資本主義が出版を産業化する中で、作者に関わる新しい権利が主張され、認められるようになっていきました。それは、今では当たり前となっている著作権です。著作権という発想が広く社会に普及したのは近代(十九世紀以降)でした。つまり、産業資本主義の発生・発達と重なる訳です。
背景としては、文学商品の売り手としての作者や出版社を脅かす利益の入らない海賊版の横行があります。手書きで写す書写本が中心だった時代には本を複製するのは困難でしたが、出版技術が進歩すると容易に出版物を複製することができるようになります。ある作者や作者と出版契約を結んだ出版社でない、全く関係の無い人・組織がその作者の作品を複製して出版することができてしまうわけです。その人・組織が全く関係ない作者の作品を出版して得た利益は、本来作者や契約を結んだ出版社の元に入るはずだったものです。
このような状況が生じた時に、作者や出版社の利益を守るために出版社が運動し、関係ない人・組織が勝手に作品を出版できないように定めた法律が整備されます。そこで作者、つまり著作者が持っている権利として認められたのが著作権です(1)。元々ヨーロッパ諸国で別々に決めていましたが、国を超えて海賊版が出版されるような事態も生じたので、国際的に共通のルールが必要になり、一八八六年にベルヌ条約が結ばれます。
さて、この世界的な約束事となった著作権こそが、作者の存在を自明のものとしました。作者というのは近代になる前からいるのだから、著作権によって作者の存在が当たり前になるというのはおかしな話だと思うかもしれません。このことを理解してもらうためには、近代すなわち産業資本主義の時代になる前、作者はほとんどの人々にとってそれほど存在を意識されないものだったことを思い出してもらう必要があります。前章で説明したように、前産業資本主義の時代に「作者たちは、依頼主との直接の関係・閉ざされた世界の中で長い間活動して」いたので、多くの人は作品を目にしたり耳にしたりすることがあっても、その作者と出会うことはありません。写真もまだ発明されていませんから、出会うことがない人の顔を知ることはできません(作者と肖像写真の関係については、4章で詳しく説明します)。また出版も出版物の流通も発達していないので、新聞や雑誌といったメディアを通して作者の情報を知ることもできません。また知る必要もなかったでしょう(作者とメディアが発信する情報との関係については、5章から7章で説明します)。
しかし、著作権の確立で、作品から利益を得ることが保証される人として作者は意識される存在になり、また作品に必ず作者の名前が添えられることで意識せざるを得ない存在となっていきます。前者は著作財産権にかかわり、後者は著作者人格権にかかわりますが、さらに詳しく説明しましょう。
作者の二つの権利
著作権という言葉を知らない人はいないでしょうが、正確にどういう思想・制度なのかまで知っている人は少ないでしょうから、どのようなことを保護する権利なのかをまず解説しておきます(2)。
作者のことは著作権の考え方では著作者と呼び、作品のことは著作物と呼びます。そして、著作者には著作物に関わる権利が法律で定められています。その権利は大きく二つに分かれます。まずよく知られているのが著作財産権です。作品を著作者に無断で複製・販売・貸与・配布してはいけないというもので、期限がありますが、期限内は権利を相続・委託・譲渡できるものです。
著作財産権については、一八八六年のベルヌ条約の時点で基本は全て定められています。まとめてみると、作品を翻訳する権利、作品を翻案したり編曲したりする権利、演劇や音楽劇や音楽を公衆に向けて実演する権利、文学作品を公衆に向けて朗読する権利、実演を公共に向けて通信する権利、放送する権利、あらゆる方法と形式による複製を行なう権利は著作者だけに認められた権利である、ということです(3)。現在の日本の著作権法の思想もそれに基づき、従っています(4)。
この権利が認められることで、海賊版によって本来得られるべき利益を奪われる被害者であり弱者だった作者は、作品から得られる全ての利益を受けることを主張できる強者へと変わりました。もちろん、法律や条約が定められてすぐに人々の考え方や社会の動きが変わるわけではなく、著作権が認められるようになるまでは時間がかかりました。また、現在でも作者の著作権を侵害して利益を得ようとする人はいますし、著作権についての知識が不十分な人々が多い(残念ながら出版関係の仕事をしている人の中にもいるようです)ために作者が不利益を被ることはあります。とはいえ、著作権の侵害に関するできごとやトラブルが話題になるということは、それだけ利益を受ける存在としての作者が注目されていることでしょう。
ただ、日本の著作権法でも「第六十一条 著作権は、その全部又は一部を譲渡することができる」という記述があるように、作者は著作権を手放すことができます。また、著作者の死後、法律で定められた保護期間が過ぎると著作権は消滅します。なので、著作者財産権だけであれば、たとえば作者の死後百年経つと作者と作品の繋がりは失われることになります。
しかし、たとえば一九一七年に亡くなってから既に百年以上過ぎている夏目漱石と「坊っちゃん」や「草枕」といった作品との繋がりは失われていないよう見えます。今でも彼の作品が出版される時には必ず「夏目漱石」という著者名と共に出版されています。もちろん、著作権が消滅しているわけですから、その出版物が売れた利益は夏目漱石にも彼の子孫にも入りません。ただ、他の誰かが「吾輩は猫である」を自分の作品として発表するようなことはありません。また「こころ」の展開が暗くて気に入らないと感じた人が誰も死なないハッピーエンドとして書き直して出版するということもされていません。これは夏目漱石に限らず、芥川龍之介でも宮沢賢治でも太宰治でも同様です。実はそういう人がいないのではなく、法律で禁じられているのでできないのですが、それに関わっているのが作者が持つもう一つの権利です。
これについてもベルヌ条約を参照してみましょう。先程の著作者財産権の後には、慣習に基づいて与えられる"moral rights"についてふれられており、まずそこでは作品の著者であることを主張することが権利として認められています。さらに、作品の一部を削除したり、作品を作りかえたり、様々な形で作品を変更することが、作品の権威を傷つけたり、作者の名誉や評判を損なう行為として禁じられています。
この"moral rights"というもう一つの著作者の権利は、日本の著作権法では著作者人格権と呼ばれています。
今説明したうちの前者、著者であることを主張するとは、「第十九条 著作者は、その著作物の原作品に、又はその著作物の公衆への提供若しくは提示に際し、その実名若しくは変名を著作者名として表示」する「氏名表示権」という形で認められています。夏目漱石や芥川龍之介や宮沢賢治や太宰治の作品を自分の作品として出版する人がいないのは、この権利があるからです。
また、後者、作品を変更して作品の権威を傷つけたり、作者の名誉や評判を損なうことを禁じるのは「第二十条 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする」という条文によって定められています。なので、どれだけ気に入らない展開の作品でも自分の好みに合わせて書き直して出版することは認められません(5)。
なぜなら作品とは作者の人格の反映であり、作者本人と同様に尊重されなければならない、という思想がこの権利の背景にあります。この権利には期限が無く、著作権法に「第六十条 著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない」とあるように、著作者の死後も生前と同様に守られなければなりません。また「第五十九条 著作者人格権は、著作者の一身に専属し、譲渡することができない」とあるように、他の人に譲渡することができないわけですから、著作者の遺族であってもこの権利を侵害することはできません。
そうです。この著作者人格権こそが、作者と作品を強く結びつけ、作者が作品にとって特別な存在であることを保証し続けるものなのです。「羅生門」の文章を変えることは芥川龍之介本人にしかできず、また「羅生門」が出版される際には、たとえば教材として国語の教科書に掲載される時にも、必ずそこに「芥川龍之介」という作者の名前が記されます。もちろん、それは生きている作者についても同じことです。読者は常に作者の名前の文字列を見せられながら作品と出会い、読んでいるわけです。
日本の出版産業と著作権
さて、本章ではベルヌ条約で国際的な了解事項として定められた著作権が、日本の法律にも採用され、それが作者の地位を保証しているということを述べてきましたが、では、それ以外の点ではどうなのでしょうか。前章では『メディア都市パリ』や『聴衆の誕生』といった産業資本主義が発展していったヨーロッパの状況を論じた書籍に基づいて作者について説明してきましたが、読みながら日本ではどうだったのか、という疑問を抱いた人もいたかもしれません。
結論から述べると、日本における作者を取り巻く状況も同じでした。近世すなわち江戸時代は、政治体制については武士が政治を担う封建制度(前近代的)であり、その下で武士・公家・寺社をパトロンとして制作を行なう作者もいました。一方で、経済体制については初期産業資本主義(近代的)であり、その下では浮世絵や戯作などが商品として流通していました。ただ、それは江戸・大坂などの都市部を主としてのことでした。それ以外の地域では貨幣経済は普及しておらず、日本全体が産業資本主義の社会になるのは二十世紀に入ってからです。
ただ、日本で出版が商業として始まるのはもっと早く、慶長(一五九六~一六一五)末期に京都で始まり、寛永年間(一六二四~一六四五)に本格化したと見なされています(6)。この時期以降百年余りについては、たとえば法要の際に参加者に配布するのに必要な数の経典を印刷したり、狂歌の詠み手たちが仲間内で回すために歌集を少部数作ったりというような限定された出版が続いていました。この状況が変わるのは安永(一七七二~一七八一)から天明(一七八一~一七八九)にかけての時期で、直接の知り合いではない不特定多数の読者が浮上してくるようになります(7)。その後、寛政(一七八九~一八〇一)になると、仲間内でのみの流通の頃には必要なかった、戯作を読み慣れていない読者向けの、たとえば駄洒落の意味を解説するような記述が戯作の中に見られるようになります(8)。
そのような不特定多数の読者に向けた出版の産業化は、更に明治時代後期(二十世紀初頭)になって、印刷・製本・流通の工程が機械化されることで加速していきます。産業資本主義が確立し、更に一九一〇年代前後(明治末・大正時代)に、工業が発展し大衆社会が到来します。書籍・雑誌といった出版物の場合、その変化を象徴する出来事として「円本」ブーム(一九二七年~)や岩波文庫の創刊(一九二七年)が挙げられてきました(9)。書籍や雑誌が商品として手に入れやすくなり、不特定多数の読者を《受容者》とするようになります。
そのような出版の産業化の過程で、ヨーロッパと同様に日本でも問題になっていた海賊版に対抗するために一八九九年にベルヌ条約に加盟し、同年条約の内容に則った著作権法を制定します。なお、現在の著作権法は一九七〇年にあらためて制定され直したものです。
出版や流通の手段の機械化こそ遅れましたが、出版の産業化に関しては日本はヨーロッパと同様の過程を経ていたわけで、その中で法律・制度の力を借りて作者の存在が重要になっていったわけです。
では、不特定多数の読者の関心を引き、作品を手に取らせるためにはどうしたらいいのか、座して待つだけではいられない作者と、それを助ける(時に邪魔をする)〈仲介者〉について次章では説明します。
注
(1) 清水一嘉『イギリス近代出版の諸相』世界思想社、一九九九年。
(2) 以下の記述は、公益社団法人著作権情報センターのサイトに基づいている。
(3) ベルヌ条約についてはWIPO(世界知的所有権機関)の以下のページを参考にしている。Summary of the Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works (1886):https://www.wipo.int/treaties/en/ip/berne/summary_berne.html
(4) 以降の著作権法についての引用は公益社団法人著作権情報センターのサイト http://www.cric.or.jp/ による。
(5) ただし、パロディとして書き換えて別の作品として発表することは認められる。作品の改編とパロディ作品の違いについては、たとえば福井健策『著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」』集英社、二〇一〇年)などの著作権についての入門書を参照して貰いたい。
(6) 藤實久美子『近世書籍文化論 史料論的アプローチ』吉川弘文館、二〇〇六年。
(7) 鈴木俊幸『蔦屋重三郎』平凡社、二〇一二年。
(8) 鈴木俊幸『江戸の読書熱 自学する読者と書籍流通』平凡社、二〇〇七年。
(9) 『講座昭和文学史』第1巻、有精堂、一九八八年。
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