Books, Life, Diversity #6
「新刊本」#6
郡司ペギオ幸夫『天然知能』講談社選書メチエ、2019年
天才、鬼才、異才、何とも呼びようのない郡司ペギオ幸夫による、AIやらシンギュラリティやらという空疎な言説が溢れたいまこそ読むべき、明るく楽しく型破りな知能についての知的冒険。彼は知能を人工知能、自然知能、そして天然知能の三つに分けて考えます。まずは人工知能。これは一人称的知能で、自分にとって有益か無益かを判断するものです。いわゆるAIだけではなく、私たちが日常的に行っている判断も含まれます。そして第二に自然知能。これは自然科学的知識で、三人称的知能とも呼びます。人工知能と自然知能は同一の知能の裏表のような関係にあるものです。そして最後に来るのが天然知能。天然知能は他の二つの知能とは徹底して異なり、予測できない外部からの訪問を待つ、そういった備えを持つ知能の形態を意味しています(人工知能と自然知能にとっての予測不可能性は、あくまで予測可能なフレーム内において想定できる予測不可能性でしかありません)。
個人的にとても納得したのは、サールの「中国語の部屋」についての分析です。要は、思考⇔部屋(マニュアル化あるいは自動化されたシステム)という二元構造は、刺激に対して反応を返す脳神経からどのようにして意味が生まれるのかというものの置き換えに過ぎず、だとすれば私たち自身の思考さえ中国語の部屋と同じだと言わざるを得なくなるわけです。そこで彼はそれを逆手に取って、中国語の部屋でさえ思考を持つのだと言う。ここでポイントになるのがそこにある開かれ、徹底した予測不可能性の現前による変容だという……、これもまだ読みかけなので誤読しているかもしれませんが、とにかく面白いのでお勧めです。思弁的実在論への言及もあって、これも明るく開かれた感じの批判で、いまのところいちばん腑に落ちています。
郡司氏の著作を最初に知ったのは『内部観測』(青土社、1997年)なのですが、非常に難解で、当時大学生だった私は、これは何かあるぞと思いつつ途方にくれていたのを覚えています。もう二十年以上昔になるんですね……。
「表紙の美しい本」#6
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『アトラス―迷宮のボルヘス』現代思潮新社、2000年
装丁は岩瀬聡氏。気球に乗ったボルヘスと、秘書からやがて伴侶となったマリア・コダーマの笑顔が、何故か悲しみと美しさ、そして途方もない開かれを感じさせます。この写真が上半分に配置されているのがとても良いんですよね……。これを読むといつも連想するのが、長新太の『くもの日記ちょう』(ビリケン出版、2000年。残念ながら持っていない)のラストです。これはほんとうに凄い。わずかな言葉で生きているということ、死ぬということ、自由、悲しみ、在るということ、とにかくあらゆることへの愛を感じさせます。話がずれましたが、私はそういった透明な悲しみ、それもただ「悲しい!」ということではなく、在るということの根源に刻まれた悲しみ、それに惹かれます。そしてそれは明るく、どこまでも開かれたものでもあります。ボルヘスのこの写真、それが見事に写されている。この写真、マリアとボルヘスとの視線の差がまた何とも言えずに良いんですよね。本の厚さ(100頁ちょっと)に対して表紙の紙の厚さがかなりあり、一見違和感があるのですが、でもこの表紙の写真のちょっとピンボケした感じとあわさって、古くてぼんやりしたアンティークみたいな輪郭を生み出しているんです。無論ですが、内容も素晴らしいので、手に入るようであればお勧めします。いちばん最後の写真がほんとうに素晴らしい。
「読んでほしい本」#6
宮沢賢治『ポラーノの広場』新潮文庫、1995年
表題である「ポラーノの広場」も素晴らしい物語ですし、「ガドルフの百合」、「氷河鼠の毛皮」、「竜と詩人」……、とにかく名作ぞろいです。あと、天沢退二郎氏の「収録作品について」によると、賢治自身は書き変えも念頭に置いていたようですが、「税務署長の冒険」のラストも何とも言えない余韻があります。ですがここでは特に「銀河鉄道の夜〔初期形第三次稿〕」をお進めします。
私は、あまりカムパネルラが好きではありません。誰かを救うために命を捨てるというのは、容易なことだと思うためです。けれどもそれは、自分にとって大切な誰かのためであればであって、ザネリを救うためには、私は絶対に危険を冒したいとは思わないでしょう。徹底して無力な私は、自分の命を含めてさえ少なすぎるその手持ちの札を何に使うのかを、常に選ばなければなりません。他方で、では愛する者のために死ぬことが良いことかと言えば、無論そんな馬鹿な話はありません。自分の命そのものに価値がないのであれば、それを捨てたところで自分が愛する誰かに対して何かを為せるはずもないためです。そうではなく、むしろ生き抜くことにこそ意味があると私は思います。とはいえ、結局は同じことで、死さえも含めて生きるといこと、在るということが重要であり、要は何を選ぶのかというところで、カンパネルラの生に私はあまり同意できないのです。カムパネルラの答えはあまりに単純明快過ぎ、それが信仰であるのなら、手を出せなかったカトウは、あるいはもしカムパネルラが居なかったとして溺死したであろうザネリは、そしてあるいは……要するにあの世界に生き残ったすべての人びとにとっての救いとは、赦しはどうなってしまうのか……。
だから、ぼくはジョバンニが好きなのです。第三次稿において、より明確に浮かんでくるのはジョバンニの生活における救いのなさです。父の存在もカムパネルラとの交友もぼんやりとしか窺えません。けれどそれでも、彼はこの世界に戻り、病気の母と不在の父が待つ暗い家へと帰っていく。明日から始まるのはこれまでと同じ日常です。それでも、では彼の人生が惨めであると言えるのか。そのようなはずがありません。
ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!(p.324-325)
私は、この、立ち上がるジョバンニの生にこそ、より尊い輝きを見るのです。
なお銀河鉄道の夜は杉井ギサブロー監督による映画も素晴らしい。細野晴臣氏によるサウンドトラックとあわせ、日本映画史上に残るべき名作だと思います。もう一つ、ますむらひろし氏によるマンガ版もぜひ。いま手元になくて確認できないのですが、ブルカニロ博士の最後に近い台詞のなかで、原作を流し読みしているとすっと通り過ぎてしまう箇所、
けれどももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考とうその考とをわけてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰も化学と同じようになる。(p.323)
これを喋るブルカニロ博士のコマ割りが凄い。途轍もないことをここで賢治は言っていたんだなと、あらためて衝撃を受けます。
そんなこんなで、また次回。
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