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Books, Life, Diversity #13

GWも終わり、しばらくは短い文章になってしまうかもしれませんが、紹介する本のすばらしさは変わりません。お付き合いいただければ幸いです。というわけで第13回です。

「新刊本」#13

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エドワード・スノーデン『スノーデン独白 消せない記録』山形浩生訳、河出書房新社、2019年

NSA(国家安全保障局)による国際的監視網の存在を暴露したスノーデンによる自伝です。 私自身、半分は技術者であること(幸い、いまは堅実なモノづくりメーカーに潜り込んでいるので、スノーデン的な事態に直面することはないのですが)、また非常勤講師として技術者倫理を担当したりもすることから、スノーデンのケースは非常に興味深く見守っています。というのは表面的な話で、スノーデンの話は、技術者がどうとか、専門がどうとかを超えて、現代社会を生きている以上、誰にとっても深刻で切実な問題です。情報はこれまで以上に、単なるデータを超えて生命にかかわる根本要素となっています。この自伝では、スノーデンが決して並外れて特殊な人間だったわけではなく、むしろまっとうな感性を持って生きてきた人物であることが伝わってきます。だからこそ、では自分がその立場に立ったとき、果たして私はどうするのか……ということが、重い問いとなって迫ってきます。とはいえ、語り口は軽妙でストレートなので、深刻な顔をしながらというよりも、私たちが置かれている、極ありきたりだけれど異常な監視社会について考えてみるにはとても良い本だと思います。第4回で紹介したバウマンの『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について』とあわせてお読みいただければ一段と面白いと思います。

「表紙の美しい本」#13

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マックス・ピカート『沈黙の世界』佐野利勝訳、みすず書房、2014年

本来、言葉は、沈黙のなかから生まれ沈黙のなかへと還っていくようなものであり、そしてそのことにより力を持つものでした。昨日紹介したバトラーの『アセンブリ』やソンタグの『他者への苦痛のまなざし』で触れたような、SNS上で交わされる固有性のまったく欠落した大量の騒めき、ただ自らの貪欲な好奇心を満たすためだけの言葉、何も賭けることのない言葉には、何も力はありません。それはただ騒がしく、私たちの生の空間を埋め尽くしていきます(SNS上の発言が無意味だということではないことにご注意ください。そこで何が賭けられているのかが問題なのです)。ピカートはこのような言葉を騒音語と呼びます。無論、彼の生きていた時代にSNSは存在せず、本書中では騒音語を生み出す典型としてラジオが取り上げられています。しかしピカートの議論自体は現代社会に極めて適合するものです。というわけでお勧めの本なのですが、しかしここでは表紙の美しさを。白い背景にシンプルなフォントで必要最低限の情報が記されています。この静寂なデザイン自体が、沈黙の世界という本書のテーマを伝えてきます(タイトル自体もシンプルで良いですね)。例えば『アセンブリ』の表紙、私は非常に好きなのですが、『沈黙の世界』の表紙があれではぜんぜん合いません。当たり前ですが。

ただ、当たり前とはいえ、では『沈黙の世界』を表すような装丁を作れと言われるとこれは難しく、その点、この本は非常に成功していると思います。右上には「始まりの本」と刻印されていますが、これもとても美しい。「始まりの本」というシリーズなのですね。いま見たところ、これ凄く良いシリーズで、読みたいものがたくさんあります。でも、装丁ということで言えば、この『沈黙の世界』がいちばん良いです(個人的な感想)。ただ残念ながら、装丁がどなたによるものかは書いてありませんでした。

「読んでほしい本」#13

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ウィリアム・サローヤン『パパ・ユーア クレイジー』伊丹十三訳、新潮文庫、1997年(17刷)

すべてをみずみずしい感性で見つめながら、いままさに成長の途上にある少年と、作家である風変わりな父親との交流を、美しくもユーモラスに描いた名作です。評価は分かれるかもしれませんが、伊丹十三による翻訳も素晴らしい。

僕の父と僕は、僕の母と僕の妹にさよならをいった。僕らは歩いて丘を下りた。僕の父の家までヒッチハイクをするためだ。

ちなみにこの「さよなら」はただ一時のお別れに対する「さよなら」で、永遠の別れとか、そういう暗い話ではありません。それはともかく、執拗に繰り返される「僕の父」「僕の母」「僕の妹」という表現に、もしかすると最初は違和感を覚えるかもしれません。しかし、伊丹十三による透明感のある文体は、すぐにその違和感を忘れさせます。同時に、繰り返される「僕」という記号は単なる記号ではなく、少年の自意識(安っぽい自己愛とか承認欲求ではなく)を表現するための、心地よくさえある必然的な表現であることがすっと伝わってきます。印象的で美しいシーンが多々ある小説ですが、私が特に好きなのは、少年が「クリュア」という言葉を生み出すところ(p.74-75)です。人が言葉を生み出し、それを誰かに伝え、伝わり、共有するということをここまで美しく描けることこそが、小説の持つ力です。そして彼が父親に、自分も作家であるということを表明するシーンも良い。

「父さん」「ウン?」「僕帰ってきた」「お前のいうのはどういう意味かね?」「僕はまた作家に戻ったんだよ、父さん。あなたはお料理の本と戯曲を書けばいい。僕は小説を書くよ。僕はどうやって書くか学ぶつもりだよ」「本当かね?」「神様に誓って本当だよ」「でも、どうしてなんだね?」「父さん、あなたわからないの? 僕も、あなたと同じように、作家である他ないんだよ」「なるほど――私は思うんだが――おそらく、この瞬間こそが私の人生の中で一番誇らしい瞬間なんだろうね」「でも、お願いだからさ、父さん、僕たちお互い、人を笑わせるようなものを書こうよね、お金になんかならなくてもいいからさ。だって、人人が笑わなかったら、人生なんて何の意味もありゃしないじゃない?」

暗い論文ばかり書くのはやめろ、森に帰れと言われ続けてきた私ですが、根っこにあるのは間違いなく、読んでくれる誰かに存在することの喜びを伝えられるような文章を書きたいということです。そしてそれを支えてくれるのは、やはりサローヤンのこの小説に代表されるような、すばらしくも美しい物語であり、言葉たちなのだなあと、いま改めて思っています。

美しい表紙の絵はPaul Davisの"Monument"、デザインは新潮社装丁室。新潮社装丁室は他にも数多くの美しい表紙を作成していますので、それについてはまたいつか。

この一連の記事では、出版支援として以下のプロジェクト/情報へのリンクを毎回貼らせていただきます。


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