Books, Life, Diversity #12
今回はイントロなしで第12回です。
「新刊本」#12
ジュディス・バトラー『アセンブリ 行為遂行性・複数性・政治』佐藤嘉幸、清水知子訳、青土社、2018年
2018年出版ということで本来は新刊本ではないのですが、これをトップに持ってこないでどうするということで新刊本に入れてしまいます。私はバトラーに大きな影響を受けているのでどうしてもバトラーの著作の紹介が増えてしまうのですが、これはほんとうにいま読んでほしい本です。バトラーはその人生において常に戦いの最前線に位置し続けてきた、いまもっとも信頼できる哲学者、思想家の一人です。多くの言葉は不要です。バトラーの言葉を参照しましょう。
もう一つ。これは現代固有のメディアテクノロジーと民主主義について論考している箇所から。
正確には本書を読んでいただきたいのですが、バトラーは無論、ここで私が恣意的に切り出しただけのような乱暴な議論をしているわけではありませんし、そもそもここで身体が賭けられているというのは、街頭デモを実況するような状況を想定しています。TwitterなどのSNS上での活動については慎重に考えるべき点がある。だけれども、それでも、ネット上に匿名性などは存在しないし、今後ますます存在しなくなっていくであろうことを考えれば、そこでの発言もまた「身体が賭けられている」ものであると言えないはずはありません。それらが力を持ち得るか否かについては、私たちが私たち自身の身体を賭けていることにどこまで自覚的であるのか、覚悟を持っているのか、ということになるでしょう。単純には結論づけられない問題ですが、実際に街頭に立ち思想するバトラーの言葉は、いま読むべきものだと思います。
これもお時間があるときにぜひご覧ください(youtubeにアップされている、Occupy Wall Streetのときのバトラーのスピーチ"Judith Butler at Occupy Wall Street"です)。
それから訳者の一人である佐藤氏による解説もとても良いです。特に一部を引用します。
繰り返しになりますが、いま読まずしていつ読むのかという名著です。
「表紙の美しい本」#12
ヴェルナー・ハーマッハー『他自律 多文化主義批判のために』増田靖彦訳、月曜社、2007年
先に紹介したヘント・デ・ヴリース『暴力と証し―キルケゴール的省察』と同シリーズです。装丁は同じく大橋泉之氏によるもの。デザインが素晴らしいのはいうまでもないので、今回は内容についても。
表題の多文化主義批判ですが、こう聞くと何やらハンチントン的な匂いを感じてしまうかもしれません。しかしまったく逆です。ハーマッハーはこの書において、「他」とは何か、そして「多」とは何かということを根源的な次元まで分析していくことにより、「他」と「多」の重要性を明らかにしています。どういうことでしょうか。ハーマッハーによれば、そもそも多文化主義そのものが不正確な用語です。なぜなら、そこでは多を構成する個々の文化が、その内側においては単一であり、また文化間での相互の関わりあいもないことが暗示されているからです。しかし現実には単一で独立した文化などは存在しません。在るのは関係性であり、私たちが日々そのなかで過ごしその文化的規範を再構築し続けているという事実です。ここからハーマッハーは、一つの文化なるものは存在せず、文化は複数形のみで存在すると結論します。
それゆえハーマッハーにとっては、多文化主義という言葉さえただ一つのものであるはずもなく、多文化主義そのものが多文化化されなければならないのです。しかし明らかに多文化主義の概念はヨーロッパ‐北アメリカ文化という固有の文化的コンテクストに基づいたものであり、それゆえこの多文化主義は幻想としての多文化主義であり、一文化からの恣意的な視点を表しているに過ぎません。したがって、ある多文化主義が普遍性を主張するとき、そこにはある種の植民地主義的暴力をともなう危険性が存在しています。もし多文化主義が個々の統一された文化を前提としているのであれば、それは依然として偽装された単一文化主義に過ぎませんし、民主主義があらゆる変化に対して閉じられたものであるのなら、その民主主義もまた依然として専制民主主義に過ぎないのです。
それではハーマッハーの描く真に多元的な民主主義とはどのようなものでしょうか。ハーマッハーによれば、民主主義において数えられるものは「声=票〔Stimme〕」(p.107)です。しかしそれらの声は、多数派に属しているか少数派に属しているかという量的な関係からのみ認識されます。それゆえそこで発せられた個々の声、その一つ一つの唯一性は、発せられると同時に消えてしまう、すなわち「消えることの中で初めて投じられた、数として有効な票になる」(p.107)ものです。このような声の弁証法は、犠牲の民主主義のモデルであって、個々の声を解放する民主主義のモデルではないと彼は指摘します。従って私たちは、数えることから外れたものを数え、数えられないものすらを数え、「共約不可能なものを共約可能なものに」(p.109)しなければならなりません。
民主主義の限界はつねに、この文化ならざる文化に属する、数えられることのなかった声を上げている者たち――難民、移民、未成年者や権利を剥奪された者たち――に対して開かれ続けていなければなりません。そして、このような民主主義を可能にするのは、ただ他者の自律化への責任と尊敬のみであるとハーマッハーはいいます。
民主主義という言葉を使うときに私たちに求められる覚悟について、私はハーマッハーにすごく影響を受けています。良い本はいつ読んでも素晴らしいということを改めて実感します。自分自身の研究は、当然より深くなっていかなければなりませんが、そのことと優れた論考が決して古びないというのは(読むたびに対話が可能であるというのは)まったく別のことですよね。
「読んでほしい本」#12
スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』北條文緒訳、みすず書房、2011年(8刷)
これも私の研究の出発点に位置している、とても大切な本の一冊です。原著は17年前に出版されていますが、いま読んでもまったく色褪せていない名著。それどころか、SNSやらスマートフォンやらの普及によって、様ざまな惨状や事件、事故の写真が溢れだしているいまこそ読まれるべき書です。それらの写真ははたして本当に他者の苦痛を伝え得るのか? 私たちはただの傍観者でしかないのか? 現代メディアを巡る数多の表層的な批判を超え、ソンタグは鋭い筆致で人間の責任について描き出していきます。無論、そこではメディア技術(例えば写真)が人間の倫理性を単純に高めるなどと主張されるわけではありません。ソンタグは、極度の苦しみを写した写真を見る権利があるのは、「その苦しみを軽減するために何かができる人々」あるいは「それから何かを学べる者たち」だけであり、そうでなければそれは「覗き見をする者」(p.40)でしかないと厳しく断言します。上記のバトラーの紹介でも書いたように、私たちは、だから、そこで私たち自身の身体(人生、生命)を賭けなければならない……。確かに、仮にそこで私たちが何かを学んでも具体的には何もできないかもしれません。けれども、だからといって斜に構えることが正しいわけではないのです。
だから、全身全霊を持って、己の身体を賭けて、苦しみ続けましょう。メディアに力を与え得るのは、それだけなのだと、私は思います。
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