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Books, Life, Diversity #17

LIXIL出版が今年いっぱいで出版活動を終えるとのニュースがありました。

書籍の販売自体は2022年の秋まで継続するとのことですが、ジャンルが特殊で、美しいデザインの本を幾冊も出版してきたところが無くなってしまうのは、とても残念です。ここだからこそ企画できたような本が今後出版しにくくなってしまうことがあるとすれば、それもほんとうに残念です。せめていまのうちに、手に入るものは手に入れておこうと思います。

とにもかくにも第17回。

「新刊本」#17

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石川学『理性という狂気 G・バタイユから現代世界の倫理へ』慶應義塾大学教養研究センター選書、2020年

届いたばかりでまだほとんど目を通していないのですが、タイトルに惹かれて購入しました。以前、まだ真面目に学会などで発表していたころ、私はしばしば民主主義や理性を批判し、その度に(リベラルな重鎮の方が多い学会だったので)叩かれまくっていました。これは私の説明が下手だからということもあり、同時に、根本的な視点の差異もあったようにも思います。ただ、私自身は民主主義を否定しているのではなく、むしろその根本から再考することを通して、他者への責任や倫理に力を与えることを目論んでいました。例えばいわゆる理性が通じない相手が居て、刃物を持って私自身に迫ってくるとき、それでもなおその相手に対する責任は生じるはずです。生じないとしたら断絶してしまうじゃないですか。だから断絶ではなく、私を殺しに来るきみと私の間にさえ、あるいはそこにこそ、きみという確かな存在が私を在らしめるという事実から倫理が生じるのであって、それが民主主義の根源になり云々、みたいな。そうすると、民主主義の根本にはある種の狂気がある。狂気がなければ、絶対的に異質な他者との関係なんて問えるはずがないんですよ。ちょっとアレですかね。そんなこんなで、ああ俺学会発表向いてないなとしみじみ思ったのですが、それはともかく、だから理性と狂気の関係って気になるのです。でもってそれは絶対に民主主義に関係あるし、排他主義や他者の蔑視が異様に幅を利かせている現代においてこそ問う意味がある。それを結びつけることができれば、民主主義が単なる理想とか理念ではなくて、誰にとっても「在る」ということから切り離せない根源的なものになるじゃなーい? と思うわけでして、でも別段それは新しい考え方でも何でもない。私よりもっときちんと研究している人たちが、様ざまな観点から考えてきており、そういうものをじろじろと探しているところです。前置きが長くなりましたが、『理性という狂気』はそんなアンテナに引っかかった一冊です。ちょっと石川氏による「はじめに」を見てみましょう。石川氏は理性の欠如によって引き起こされる諸問題を挙げつつ、同時に、理性さえあれば人間は幸福になれるのかどうかということを冷静に問います。そして原爆投下などの歴史的事例を引き、次のように言います。

仮に、大量破壊兵器が使用国にとって合理的なものだとしても、個人の区別がゼロになる大量殺戮に合理性はない。生まれたばかりの赤ん坊が一瞬で殺されるのに、どんな正しい理屈があるだろう。そして、理性が常軌を逸した結果の原因になるのだとしたら、それは理性そのものが、合理的であること自体によって、一種の狂気を宿しているのだとも言えるのではないか。(p.10)
私たちの時代はもはや、理性的な活動が有益な結果をもたらすと無条件に信頼してよい時代ではない。必要なのは、理性の暴走、理性の狂気に即した倫理を構築することである。言い換えれば、理性の狂気は、理性的であることによっては防げず、むしろ助長されうる。狂気を事実として踏まえた対処の方針が求められているのである。(p.11)

非常に優れて、かつ切実な問題意識だと思います。私自身は、倫理それ自体も人間の根源にある狂気にも似た何かであって、石川氏の言葉を借りれば、それを「理性の狂気」にぶつける必要があると思うのですが、いずれにせよ現実とは何かということを、人間存在の原理においても、この社会の現状においても、私たちは見据える必要があります。意見なんて違っていてかまわないし、むしろその方が本を読むという行為においては豊かな対話を生み出してくれます。読むのがとても楽しみな一冊です。

「表紙の美しい本」#17

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大山エンリコイサム『Against Literacy On Graffiti Culture』LIXIL出版、2017年(2刷)

気鋭のアーティスト/研究者である大山氏によるグラフィティ文化に関する論考集。質の高さを維持しつつも、文体は読みやすく、そこに描かれるアーティストたちは生き生きとしています。私が大山氏を知ったのは『アーキテクチャとクラウド 情報による空間の変容』(富井雄太郎編、millegraph、2010年)に所収されている南後由和氏とのメール対談によってでした。このなかで大山氏が現実の都市空間と情報空間が入り組んで複雑なものになっていくということをストリートアートを参照しつつ述べていて、当時の私はなるほどなあと深く頷いたのでした。いま私はアート全般と自分のメディア論を融合して語る必要を感じていて、そこで現実にリアリティを与えるものとしてのノイズの重要性に注目しています。細かなことは良いのですが、そうすると私たちの現実空間に(善悪の価値づけよりも本質的な次元で)ノイズとして現れるストリートアートについて考えることはますます重要になっています。ですので、大山氏はいまもっとも興味を持って追っている方の一人です。でも、LIXIL出版、無くなってしまうんですよね……。

デザインは中島美佳氏。既にしてグラフィティ文化論の古典であるかのような端然とした佇まいを感じさせますが、もっとも美しいのは背表紙です。私は門外漢なので何がというのが難しいのですが、珍しいデザインだと感じます。これが一冊あるだけで、本棚全体が引き締まる感じがしますね。

「読んでほしい本」#17

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マルク・クレポン『文明の衝突という欺瞞 暴力の連鎖を断ち切る永久平和論への回路』白石嘉治訳、新評論、2003年

タイトルからも分かるように、これはかつてベストセラーとなったサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』というトンデモ本に対する、徹底した論駁の書です。本文自体は本書の約半分程度で、内容は濃いですが、主張は明快で読みやすいです。残りの半分はクレポンを含む三人の方による補論で、これも面白いです。

ハンチントンは、文明の普遍性に対して否定的な立場をとります。彼にとって文明とは、人間が集団を構成し得る最上位の形態であり、それを超えた共通項を持つことはできません。したがって異なる文明に属する人間は原理的に理解しあえないことになります。けれども、もし文明間の断絶が本質的であれば、ハンチントンはそれらすべての文明に関して言及し得るいかなる立脚点も持てないはずです。イスラムと儒教、そして西洋が互いにコミュニケーション不能であることを執拗に述べるハンチントンは、その発言自体が自らを無効化していることに気づいていません。結局のところハンチントンの主張は確たる根拠を持たず、自説を否定する事実は無視されます。ハンチントンは西欧文明固有の特質として個人の権利と自由の尊重を挙げていますが、それに対してクレポンは、ハンチントンが西欧社会の様ざま場面に見られる人権侵害を、逆にイスラム世界における人権獲得のための闘争を、いずれもその文明の本質ではないとして意図的に見逃していると指摘します。実際、ハンチントンは民主的な価値観の基盤をキリスト教に求めますが、異端排斥や十字軍、そして植民地主義への積極的な加担というキリスト教の負の歴史については説明できません。

無論、クレポンはここで、そもそも「イスラム教」や「キリスト教」という均質で差異のない文明観を前提しているのではありません。文明の一貫性を前提することは、現実社会における移民の存在を否定するものだとクレポンは言います。文明間の関係に敵対性のみを想定するハンチントンの論理にしたがえば、私たちは自らの内に移民という侵略者を抱えることになってしまいます。さらに文明の一貫性は、その文明における政治、経済、芸術、宗教などのすべての社会的営為をただ一つの文明との関連で説明できなければなりませんが、それは不可能です。そのような文明観は、自らを無根拠に特権化する「破壊的なイデオロギーや政治の道具」であり、「暴力を正当化しようとする人々に与すること」だとクレポンは批判します。その上でクレポンは、文明は「交換のネットワーク」として形成されてきたのだと主張します(詳しくは省略しますが、クレポンはここで意図的に文化と文明を区別せずに使用しています)。諸文明は、互いを交換しあい、絶えず相互作用することにより、つねに生成され続ける。そしてそれこそが、文明を超えた人類の普遍性を指し示しているのです。つまりクレポンにとっての人類の普遍性とは、ハンチントンのような硬直した本質論ではなく、つねに差異を生みだし続けるものとしての、翻訳という豊かな多様性を生み出す行為としてのみ見いだせる普遍性です。それ故、文明は保存し守るべきものではなく、つねに生みだされつつある動的なものなのだとクレポンは言います。

私は以前、博士論文を書いていたときに、ある教員から「いまどきハンチントン批判なんて意味あるの?」と言われたことがあります。確かにハンチントンの本は真面目に取り上げるのも恥ずかしいようなものです(ですので、書誌情報もここには書きません)。けれども他方で、未だに、あるいはその当時よりもいっそう、ハンチントン的な世界観はのさばってきています。そういうなかで、クレポンのこの書は改めて読むにふさわしい本です。

この一連の記事では、出版支援として以下のプロジェクト/情報へのリンクを毎回貼らせていただきます。


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