家族の希望を作ったコーヒードリップパック
実家の母から「父が脳梗塞になった」と連絡があったのは、もう1年以上前になる。
その時、父の病気だけが問題ではなかったのだが、家族が病気になると、想像を絶するほどの心配と現実が待っていて、医者である兄と電話する度に「俺ら家族は詰んだね(将棋でいう負けを意味する)」と言い合うこともあった。それでも母親の献身的な看病のおかげで、一時はなんとか仕事を続けられるまでに回復し、ここまでなんとかやってきた。
父は美容師だ。
40年以上も美容師として活躍し、専門学校の講師を務めるなど、おそらくその道のプロと呼ばれるような人なのだと思う。僕が生まれた年に開業し、籠の中に入った赤ちゃんだった僕がお店のテーブルの上にいたと話す常連客もいる。長い時間をかけて、美容師という仕事は父の生きがいになり、生活になり、命の一部にさえなってたのだと思う。
先日、また調子が悪くなったと母から電話があった。救急車で運ばれ、病院にいるらしかった。コロナのせいで入院が難しく、一泊だけして家に帰らなければならないと伝えられた。脳梗塞には色々症状があるらしいが、今回の父の症状は幻覚や記憶障害だった。電話口で「家に黒人の女性がいる」とか「うちの猫を100匹くらいの猫が襲っている」「知らない男が襲ってくる」など昼夜問わず症状が出るらしかった。その症状が出る度に、側から見るとおかしな行動を取る父を母親が時間関係なく止めなければならないのだ。
遠くに住む僕たちにできることは、頻繁に電話をしたり、買い物に行けない母親に食べ物を送ったりすることしかできなかった。それでも母親は気丈に「大丈夫だからね」と明らかに寝ていない声で、自分を励ますかのように僕たちに安心感を与えようとしてくれていた。でも僕たち兄弟も不安感などに苛まれていった。
そして、さらにどうにもならない悩みがあった。それは父が美容師としてまた復帰したいと願っていることだった。願うどころか、仕事に行くんだ!と、やめた方がいいと言っても聞かないような状態の時もある。担当医からも無理をしたら良くないと言われていると聞いていた。でも脳梗塞はストレスが大きな原因となっていることもあり、やめなさいという言葉が再発を助長する可能性もあった。
父は美容師を生きがいとし、生活とし、命の一部にしている。
さらに、美容師を辞めたとしても、それ以外にやれることがない、社会との断絶に不安感を覚えているようだった。
それをやめろというのは本当に辛いことだと思った。でも周りはそうも言っていられない。兄からも「お前、何か考えて親父になるべく美容師をやめられるように勧められないか」と相談され、僕は必死に考えた。
母親の看病も限界に近い。
父も苦しんでいる。
兄にも生活や仕事がある。
僕は、どんどん追い込まれていった...。
そんな時、本当に無意識に近い状態で、僕は母親にこんな話をしていた。
「お父さん、コーヒーブランドのオーナーにならないかな」
子どもとして僕にできることと周りの助け
僕はクレイジータンクという組織の代表をしている。まつしまようこと立ち上げたこの組織は、イベント企画やものづくり、サービス作りを事業とすることからスタートし、今では企業コンサルティングを請け負うまでに成長し、今年度のLEXUS DESIGN AWARD 2021でもSDGsとものづくりの提案が最終審査まで残るなど、世界に目を向けた仕事をしている。さらにクレイジータンクは常に「人の心を大切にしよう」という思いの中で仕事をし、お金儲けはその後に付いてくるものとして、人に寄り添うようなサービスを常に意識してきた。
そのクレイジータンク事業の中に、コーヒーブランドひびのひびとのコラボレーションがある。ひびのひびオーナーの日比野泰之さんとは元々保育園のパパ友で、そのご縁からひびのひびブランドの立ち上げからディレクションをさせてもらっていた。
そのひびのひびブランドとの事業の中に、お客様だけのオリジナルのコーヒーブレンド豆を作り、さらにそれをお客様自身が販売をするサポートまで行う、というものがある。これは"クレイジータンクディレクション"という事業の一貫で、クレイジータンクファンクラブ会長いなつちさんが第一号だ。当時、まだスタートはしていなかったが、ノウハウをクレイジータンクとして構築し始めていた。
父は、無理ができない。お客様対応やお店に車や電車で向かうのも難しい日もあるだろう。家でできることで、尚且つ父らしい何か...美容師に変わるやりがい...。
そう考えている中で、コーヒーフィルターではあるけれど、コーヒーブランドのオーナーになることはどうかと提案していた。提案を聞いた母は喜び、父に至っては記憶障害がある中でコーヒーオーナー提案のことは一度も忘れることなく、むしろ意見までしてくるのだった。
僕や家族はひとときの安堵を得た。コーヒーフィルターやクレイジータンクがこれまでやってきたことが希望になった瞬間だった。
しかし、これで悩みが解決したわけではなかった。当たり前に組織で作ってきた事業の価値を、個人の問題で利用できるわけがない、と思っていた。恐る恐る、共同代表のまつしまに事情を話したら、
「是非やってください!むしろ、シニア世代や病気をされた方、介護者に夢を与えられるかもしれませんよ!」
と、むしろ前のめりに今回の話を受け入れてくれ、さらに提案までしてくださったのだ。僕は泣きそうになった。別の日、ひびのひびブランドオーナー日比野泰之さんにも電話をかけた。
すると、日比野さんからも、やりましょう!のお言葉をいただき、なんと次の日には日比野さんからオリジナルで焙煎してくださったコーヒー豆が家のポストに届くという熱量ぶり。すぐにテイスティングをさせていただき、父や母に報告。
「今回の提案がどれだけ希望になっているか、本当に、ありがとう...」
そう言った母の安堵の声は今も耳に残っている。
さらに日比野さんに味の感想を伝えると、また次の日にサンプルが届き、日比野さんの優しさは僕を感動させ続けた。
今も味の調整は続いている。日比野さんからもゆっくりやりましょうといっていただき、病気の父のスピードで商品開発が進んでいる。
ブランド名を作る
父がオーナーになるコーヒーブランド。ブランド名は何が良いだろう、と悩んでいた時、ふと、父はやはり美容師は続けたいのだろうなぁという思いが込み上げてきた。40年以上も関わってきた仕事。脳梗塞になっても辞めようとしなかった仕事。そんな大切な仕事からコーヒーブランドオーナーにもなる時、全く新しいブランド名ではなく、これまでの父の功績や思いを残してあげたいと思った。
父の美容室の名前...
SALON de MARINE
海が好きな父
開業当時、母が付けた名前
英語とフランス語が混じり合った不思議な名前
僕はハッとした。父は美容師からコーヒーブランドオーナーという肩書きが付け加えられるだけなんだ、と。気持ちや思いは変わらない。
名前はすぐに決まった。
CAFE de MARINE
SALONからCAFEに変わっただけで、父はまたそこにいる。MARINEに...。
母からは「私が英語とフランス語を間違えて混ぜて付けた名だったけれど、素敵だね」と言ってもらえ、父も気に入った様子だった。
すでに日比野さんからのサンプルにはその名が刻まれている
CAFE de MARINE
まだまだ開発は続くし、父の様態だって毎日のように変わる。
でもCAFE de MARINEはみんなに支えられながら、新しい波を打ち続けている。