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戦後74年、内田祥文「紀行・原子爆弾被害調査行」を読む

広島というところは死んだ人のゆくところでもあったようだ。人が死ぬとあの爺さんも広島へたばこを買いにいったげな。とうわさするものがあった。広島という土地は一つの幻想の世界だったのである。 宮本常一(*1)


内田祥文が行く長崎

敗戦から間もない1945年11月(*2)、東京帝国大学講師・内田祥文(図1)は、朝の急行で長崎へと向かいます。

図1 内田祥文

同行するのは東大助教授M氏、鉄道官Y氏のほか、助手・学生をまじえた6名。旅の目的は「原子爆弾被害調査」。長崎と広島へ調査へと赴いたその体験を、内田は「紀行・原子爆弾被害調査行」として発表しています。

鉄道での旅路はとにかくごったがえす人人人。さらに軍人の狼藉、疲弊する婦女子、怒号と泣き声が渦巻く大混乱な状況。そうした「車内で経験した数々の情景」は、実のところ「今日の日本全体の縮図」なのだと内田は言います。

さて、諫早での一泊後、ようやく汽車は被災地・長崎に入ります。

何か異様なざわめきが起ったので、ふと顔をあげた時であった。ものすごい破壊状態が眼前に展開され出した。凄愴と云おうか、また愴絶と云おうか-それはわれわれが、未だ嘗て見たことのない、荒涼たる情景であった。(中略)あの歴史的な日より、既に三カ月を経過した今日であるのに、茲に見られる破壊の姿の何となまなましく鮮やかなことか。

爆心地付近の黒焦げになった樹木は、あたかも「サルバドル・ダリの絵のよう」にありえない光景として続く。

木造家屋の防火を研究していた内田だけに、やはり木造家屋の惨状(というか跡かたもない状況)にも言及しています。爆風による破壊はもちろん、同時に広範囲に及んで発生した火災で、全市の大半は焼失していました。

内田たち一行は浦上教会のある丘(図2)も訪れました。

図2 浦上天主堂付近(Wikipedia)

現地の人から、その場所は「原子爆弾の記念地として、このまま永久に残す計画」であると聞き、こう記します。

”原子爆弾の記念地”とは如何なることを意味するのであろうか。それは単なる歴史的な一事体のモニュマンに終らしめてはならぬ。幸福とは何か、建設とは何か、-ということを真に考え、真に理解せんとする人々にこそ、この土地は価値を有する。(中略)人々はこの荒涼たる土地に立ってこそ始めて建設の何たるかを知り、この愴絶なる土地に涙してこそ、始めて幸福を理解することが出来るであろう。

破壊された長崎を目の当たりにして、そう決意したのでした。


内田祥文が行く広島

長崎をあとにして広島に入ると、内田はまずそこが長崎と比べて「全般的に活気に満ち満ちて居る」ことに驚きます。

それはなぜなのか。聞くところによると「広島市民達」は、原爆投下後は復旧活動に従事していたけれども、敗戦後、次第に原爆とは何なのかを知るに至り、そして、犠牲者が増加するに従い、広島から離れていったといいます。

でも一時は避難したものの、次第に「自分の家」「自分の土地」でない生活の不満に突き動かされ、やっぱり「自分の焼失地を尋ねて来る」ようになったのだというのです。「75年間は生物は悉く死滅する」と言われながらも、その後、広島が奇跡的な復興を遂げた要因がここにあると内田は指摘します。

「再び住めぬものとのみ信じて打ち捨てて置いた自分の土地からは、逞しくも次の時代の精力が、若草と成り、若芽と成って萌出して居る」と云う事実こそは、無条件で、再びこの土地に家々を建てることを彼等に決心させた-と云うのである。挿話と云うものが新しい時代の科学にも残されるものであるならば、この事実こそは新日本建設の一挿話ではあるまいか。

「広島市民達」のやむにやまれぬ行動と、それがまきおこす「活気」を通して、いわば「新日本建設」へ向けた精神論に内田は思いを寄せるのです。


トルーマン声明からの衝撃と決意

破壊の衝撃と同時に、内田は科学技術の力にも衝撃を受けます。原爆に関する情報は極力トップシークレットにされているものの、わずかながらに外電によって与えられたトルーマン声明を、内田は「忘れることが出来ぬ」と言います。

紀行文ながら、原爆投下後に発せられたトルーマンによる声明を、長文にわたって引用しているのです。

それは原子爆弾である。これは宇宙の根本的な力を駆使したもので、今や太陽の力の源泉と成る勢力が放出されたのである。(中略)爆弾の発見迄には20億ドルを費した。だが最大の奇蹟は、その企業の規模でも、その秘密でも、その費用でもなく、科学の各方面に於ける多くの人々の有する飽迄複雑な知識の断片を、打って一丸として立派な工場とした科学者の頭脳の業績である。しかも、これに劣らず奇蹟的であったのは、未だ嘗て行われたことのないことをする為に、機械及び方法を設計した工業力の力と、それを操作した労働能力であって、多くの人々の頭脳の虚弱が、物質的な形態をとり、想像されて居た通りのことを行ったと云う事実である。

(ちょっと訳が不思議なカンジですが、内田による記事のママです。参考までに以下のHPで訳文がみられます。)

いろんな分野の科学者がもつ複雑な知識の断片を結集し、いまだ実現したことがないプロジェクトを成功させること。そのための機械や方式を設計する企業の能力、それを操作する労働者の能力をまとめあげていく。そんな「共同作業」によって、あの未曾有の破壊力をもつ原子力爆弾=太陽の力の源泉をアメリカは手にすることができた。内田はそこに衝撃を受けるとともに、自ら人生をささげる建築技術における「新日本建設」のヴィジョンを見たのでしょう。

紀行文を締めくくるにあたって、内田はこう語ります。

この旬日、われわれが踏み込んで来た大地こそは、幾千幾百の同朋が、呻吟き、のた打ち、そして打ち倒れて行った、その場所であった。われわれは数多くの流血の上を通り、無数の同朋の白骨を踏み渡って来た。そして、この事実は、何も、われわれが踏査した長崎や広島に限ったものではない。今後、われわれが、新しい日本として復興せねばならぬ数々の都市や町は、総てこうした、われわれの祖先、父母兄弟の死闘の元地である。
ただ、単なる終戦に安堵して、愴絶なる過去の様相から目を蔽い、空ろなる復興を叫ぶのは止めよ。
現在われわれが直面している厳然たる事実を凝視してこそ、その上に真のわれわれの復興があり、建設があり、そして幸福があるのである。
現実の透徹せる凝視こそは、我々に勇気を与え、自信を与え、そして果敢なる実行力と、輝しき未来の生活とを築きあげるであろう。


内田祥文が託した夢

長崎・広島への調査行が11月。その前月に、内田祥文は学位請求論文『木造家屋外周の防火に関する実験的研究』で東京帝国大学第一工学部教授会の議を経て工学博士の学位を授与されています。

戦時中、米軍からの焼夷弾攻撃に際してどのように家屋を防御するかについて、膨大な実験データをもとに論証した内容です。ただ、広島・長崎で直面した原子力爆弾の被害は、そうした地道な知見をも木っ端みじんに打ち砕くものでもありました。

内田は博士論文の知見をベースにしつつ、災害に負けず、かつ美しい都市の在り方を模索していました。紀行文を掲載した雑誌『科学画報』が出版された1946年1月には、それまでの東京帝国大学講師にあわせて、日本大学工学部教授にも任ぜられ、建築構造と都市計画を講じ、建築設計製図の指導にもあたることになります。

同年3月には、東京帝国大学助教授に任ぜられ、さらに東京都商工経済会主催「帝都復興計画図案懸賞募集」に参加し、ふたつの応募案がともに一等に当選という快挙をなしとげます(図3、*3)。

図3 帝都復興計画・新宿地区

ただし、内田自身はその報にふれることなく、3月26日夜、死去してしまうのです。享年32歳でした(*4)。

内田の結婚式で媒酌人をつとめたのは岸田日出刀でした。著書『窓:建築・評論・随筆』(相模書房、1948)には、「内田祥文君の死」と題した小文が収録されています。

心もち首をいつも曲げたなつっこい容子をした朗らかな祥文君が死んだとはどうしても思えない。(中略)二つとも一等賞になるという名誉の次第も、地下へ報じ地下で聞かねばならなかったとは、何という悲しいことであったろう。御両親や御令閨はじめ家族の方々の心情を考えると胸がふさがる思いがする。

死因は過労からくるくも膜下出血だとされます。ただ、池辺陽から聞いた話として、佐々木宏が次のように述べています。

広島に原爆が落ちて、(内田祥文は)一番先に調査旅行に行って、池辺さんの話だとそのころ原爆症とは誰も言わなかったけれど、内田さんが死んだのはおそらく原爆症だろうと。(*5)

その真偽はわからないけれども、そうであっても意外ではない惜しまれる夭折でした。ただ、彼の死もまた戦争によりもたらされたものであることは間違いありません。先に引用した小文にて岸田も「それは学問の犠牲であり、また間接には敗戦という痛ましい現実の犠牲であったように思える」と記しています。

生前、教えを受けた建築史家・伊藤ていじは次のように回想しています。

大学三年目の秋ごろだったか、東京郊外の工場を爆撃した帰りと思われる米軍機を内田祥文先生と丹下健三先生とその他10人ほどの方と、見上げていたことがありました。その時、構造の小野薫先生は笑いながら、「しゃくだねえ」とおっしゃられました。内田先生は「爆撃するのをためらうぐらいの美しい都市を作りたい」と言っておられました。これは内田先生らしい。(*6)

内田は「美しい都市」をつくるため、近隣住区理論やル・コルビュジエの都市設計など、最新の情報を摂取し、膨大なスタディをふまえて日本への移入を試みていました。1941年に計画した「新しき都市」(図4)は、戦時下の提案ながら、戦後出版された数多の教科書や専門書に模範例として掲載されることになります。

図4 内田祥文ほか「新しき都市」

あまりに早すぎる死。長崎と広島の惨状を目の当たりにして得た「新日本建設」の挿話とヴィジョンをもとに、ようやく実行するという矢先の悲劇でした。

「今後、われわれが、新しい日本として復興せねばならぬ数々の都市や町は、総てこうした、われわれの祖先、父母兄弟の死闘の元地」であり、だからこそ、「単なる終戦に安堵して、愴絶なる過去の様相から目を蔽い、空ろなる復興を叫ぶ」のではなく、「現在われわれが直面している厳然たる事実を凝視」すること。そのことによって「真のわれわれの復興があり、建設があり、そして幸福があるのである」。

「幸福な共同作業」への信念はひとり内田祥文にあったのではなく、戦後日本を担った若き建築家たちに共通した思いだったことでしょう。「75年間は生物は悉く死滅する」と宣告されてよりたくさんの月日が過ぎました。「広島市民達」と「トルーマン声明」の衝撃から74年が経とうとしています。



1)宮本常一『私の日本地図4 瀬戸内海Ⅰ広島湾付近』、同友館、1968年
2)内田祥文「紀行・原子爆弾被害調査行:ひろしま・ながさき」、科学画報、1946年1月号、誠文堂新光社。なお、この記事には調査行の月日は記されていないが、文中にABCCの来日や、桂離宮の下賜を新聞で知る場面が記されているため、1945年11月と推測される。
3)内田祥三『内田祥三先生作品集』、鹿島研究所出版会、1969年
4)内田祥文『建築と火災(改訂版)』(相模書房、1953年)掲載の内田祥文略歴による。
5)佐々木宏「評論でも鋭かった建築家・池辺陽」、『素顔の大建築家たち02』、建築資料研究社、2001年。内田の突然の死に伴って、池辺陽が東京帝国大学第二工学部に着任することになった。
6)戦後建築史学研究小委員会「戦後建築史家の軌跡〈第七回〉伊藤ていじ」、建築史学、第42号、2004年3月

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