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戦後日本、住経験から数学を学ぶ|生活単元学習のロマンと遠山啓による批判

小1の娘には、毎日かならず音読と計算の宿題があります。ときどき問題に躓くと親の出番なわけですが、小1の問題ゆえの「シンプルさ」がかえって教えることを難しくさせます。

以前こまったのが、1から10、さらには19まで順番に数えられるけれども、19の次が20で、さらに21、22となるのがわからないというケース。もちろん今は楽々できるようになったのですが、躓いているその時には、どうやって教えたらいいものやら苦労しました。

自分がなかなか鉄棒の逆上がりを習得できなかったときを思い出します。あれこれ懇切丁寧にアドバイスされても全くできない日々。あるときたまたま成功して、それをキッカケにできるようになる。そして、できるようになってから、アドバイスの意味が理解できるようになりました。

ことほどさように「教える」ことは難しく、だからこそ、算数・数学についても、何をどう「教える」のかについて先達による試行錯誤の歴史が織りなされてきました。そんな歴史の一端をうかがえる事例に出会ったので、ちょっと書き綴ってみたいと思います。

日常の経験をもとに学ぶ

お仕事の関係で、戦後に出版された小・中・高の教科書を対象に、そこで取り上げられた「住居」について資料を集めています。そのうちの一冊、中学1年生向けとして1952年に出版された教科書の目次をごらんください。

単元1 私たちの学校
単元2 身体検査
単元3 私たちの食事
単元4 私たちのスポーツ
単元5 遠足
単元6 私たちと商店
単元7 私たちの住居
1年のまとめ

「学校」とか「身体測定」とか「スポーツ」とか「遠足」といった言葉が並びます。しかも「私たち」とセットで。さて、この教科書の科目名はなんでしょうか。実はこれは数学の教科書。数学研究委員会編『日常の数学・新訂版:1上・下』(大日本図書、1952年)です(図1)。

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図1 『日常の数学』

1952年といえば、GHQによる占領が終わる年。その前年には学習指導要領が改訂されていて、改訂内容を踏まえた新訂版の数学教科書なのです。

教科書タイトルには「日常の」とついています。つまりは「私たち」と「日常」が結びついた数学を学ぶというコンセプト。たとえば中2教科書(『日常の数学・新訂版:2上』および『2下』(大日本図書、1952年))になるとこんな目次になっています。

単元1 村と町
単元2 生産と貯蓄
単元3 物の形
単元4 地図ができるまで
計算のまとめ(Ⅰ)
単元5 自然の力
単元6 はかりのある生活
単元7 数と私たち
単元8 式とそのやくめ
計算のまとめ(Ⅱ)

えっ、これが数学の教科書?!となりますよね。社会科とか家庭科かと思ってしまう目次構成。ついでに、2・3年の目次は次のようになっています。次に『日常の数学・新訂版:3上』および『3下』(大日本図書、1952年)。

単元1 地球と暦
単元2 わが国の人口
単元3 形と私たち
単元4 生産と金融
単元5 財政と納税
単元6 計画ある家庭生活
単元7 規格と産業
中学校数学のまとめ

この「私たち」の「日常」にある生活経験のなかから数学を学ぶ在り方は「生活単元学習」と呼ばれています。「生活単元学習」は、戦後日本の再出発にあたり新しい教育制度の目玉企画として導入されたものでした。1947年に初代の「学習指導要領(試案)」からはじまり、さらに1952年の改訂を経て、1961年改訂による方針転換まで続く「生活単元学習の時代」を築いたのでした(*1)。

「日常」から学ぶ住居

では、「私たち」の「日常」にある生活経験のなかから数学をどのように学ぶのか。今回この教科書を入手したお目当てである「単元7 私たちの住居」を例に見てみましょう(図2)。

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図2 単元7の扉

「私たちの住居」の単元は2つの内容で構成されています。

1.住居の現状(1.住居の不足、2.住みよい家)
2.住居の改良(1.合理的な住居、2.へやの整とん)

まず、「住居の現状」では1950年代はじめという時代を反映して「1.住宅の不足」からはじまります。たとえばこんなふうに。

7-1図は、戦争中に失われた建物のようすを示したものです。
問1.戦災で失われた建物は、全体の何%ですか。それは何戸くらいですか。7-1図で調べなさい。
問2.疎開、破損で失われた建物のようすを、問1と同じようにして調べなさい。
問3.7-1図によると、戦争中に失われた建物の総数は何戸くらいですか。

ここでは「戦争で失われた住宅」を示した「正方形グラフ」をもとに学習します。さらに「全国建築しゅん工状況」の表を読み解かせたのちに、次のように展開していきます。

問10.あなた方の地方の、建物の復興状況を調べてみなさい。
問11.7-1表で、1戸当たり床面積というのは、どのような意味をもつものですか。また、これはどのように計算されたかを考えてみなさい。また、この表から実際に1戸当たり床面積を計算して、表の数字と合うかどうかを調べなさい。
問12.あなたの家の床面積は何坪くらいですか。これと7-1表に示された1戸当たり床面積とを、くらべてみなさい。

どんどん、自分自身の生活へと視点が移っていくのです。そのほか、建築材料不足を題材に、「12坪の家を建てるには、何石くらいの木材がいりますか」とか「1年に床面積12坪の家が何戸くらい建てられますか。この割合でいくと、不足している建物を全部建てるには、何年くらいかかるでしょうか」といった設問が続きます。

「2.住みよい家」では、健康的な住居の条件として、「日当たり、風当たり、気温、湿度、暖房そうち、換気、水の便、水はけ、気候」が挙げられ、気温・湿度のグラフや、壁の材料と室内温度の関係、自然換気の所要時間といった内容が続きます。もう理科?

次に「住居の改良」。最初に「合理的な住居」と題して「間取り図」の読解を進めていきます。「小林さんの家」を事例として・・・。

問2.この家は何坪ありますか。また、その中で畳のはいっているところは、何畳ですか。
問3.小林さんの家では、1人当たり床面積は何坪ですか。また、1人当たり何畳になりますか。
問4.問3の結果から、この家は広さの点からみて、健康的であるといえるでしょうか。

いわゆる庶民住宅の「住宅基準」が背景にあることがうかがわれる設問です。このあともかなり詳細に間取りを検討していきます(図3)。

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図3 「住宅の改良」掲載の間取り図例

そしてやはりここでも、自分自身の家を題材に間取りの検討をうながします。その手順は次のとおり。

(1)家の間取り図をかく。
(2)1人当たりの床面積を調べます。
(3)1人当たりの畳数を調べる。
(4)健康的であるか、どうかを調べる。
(5)仕事の能率が上がるようにできているかどうかを調べる。

次いで「2.へやの整とん」では、家財道具とその配置を例にして、次のような問いが投げかけられていきます。

問21.4畳半のへやの縦・横・高さの寸法を実際に測ってみなさい。
問22.山本君の家の畳の縦・横を測ったら176㎝、88㎝でした。その面積を求めなさい。また、これを尺、寸で表して面積を求めてみなさい。
問23.たんすの寸法は高さ122㎝、正面の幅73.7㎝、奥行きは45.2㎝でした。それを尺、寸で表しなさい。

などなど。要は部屋や家具をもとに、面積や体積、単位、鉛直線、並行平面、円柱、水平面、台形などなどの概念を学んでいく内容なのです。おぉ、これなら実際の生活に即して「自分事」として学べるから学習意欲が高まるんじゃ中廊下、役に立つ感って大事だよネ、とか思ってしまいます。

やけにハイレベルな参考書一覧

さて、この単元の最後には「参考書」の一覧があります。そこでは次のような本が紹介されています。書誌情報がけっこう雑なので、もう少し正確に表記しておきます。

1.関野克『日本住宅小史』、相模書房、1949年(戦後版)
2.橋本竜一・斎藤竹生『図解すまい』、誠文堂新光社、1948年
3.西山夘三『これからのすまい:住様式の話』、相模書房、1949年
4.太田博太郎『日本の住宅』、彰国社、1948年
5.大湾政二『家と私たち:新制中学理科シリーズ12』、清水書院、1948年
6.文部省『私たちの科学12家はどのようにしてできるか』、文部省、1947年
7.三石巌『生活科学読本』、旺文社、1947年
8.伊藤喜三郎『建築の一般知識:住居と店舗を中心として』、牧書房、1949年
9.丹下健三監修『少年少女科学グラフ9 特集:家の話』、自由出版、1948年
10.村田治郎編『世界の家・日本の家:目で見る社会科6』、毎日新聞社、1948年
11.横山尊雄編『すまいの文化:目で見る社会科7』、毎日新聞社、1948年
12.三苫正雄・松田義元ほか『中学図画工作』、日本教育図書、1949年

ご覧のように、これら参考書は1947年から1949年にかけて出版されたものばかりで(ただし、関野克の『日本住宅小史』は1942年の戦前版の改訂)、戦後日本に登場した最新の知見が紹介されていることがわかります(図4)。

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図4 参考書の一部

ためしに12番目の『少年少女科学グラフ9 特集:家の話』を開いてみると、その内容は一貫して、主人公の太郎君が自分の家の建て替えをキッカケに、どんな家がよいかを考え、実際に間取り図を丹下先生にアドバイスしてもらったりしつつ作成する流れが描かれています。ここでも「生活経験」が重視されているわけです。

これら参考図書のジャンルは、少年・少女向けの社会科や理科、図画工作科の参考書もあれば、住宅史や住宅計画、生活科学に関する専門書にも及んでいます。実際のところ、当の中学2年生がこれら参考書を手に取って読んだのかどうかはわかりませんが、学びたい生徒には、さらに深掘りするための手がかりが示されていることにはかわりありません。

「生活単元学習」から「系統学習」へ

さて、この「生活単元学習」の時代は、1961年の学習指導要領改訂で大転換を遂げることになります。それは「系統学習」という旗印のもとに行われました。実際に改定後=「系統学習」への転換後の教科書目次をみてみましょう。同じく中学1年生の数学です。

【数量編】
第1章 数とその計算
第2章 文字と式
第3章 比と比例
第4章 正の数,負の数
第5章 近似値と計算尺
【図形編】
第1章 図形の見方・かき方
第2章 平面図形のかき方と性質
第3章 立体とその表わし方

なんだか一気にお馴染み感あるものになっちゃって。なぜこう変わったのか。それは「生活単元学習」で学んだ児童生徒の学力低下が著しかったことに由来するそうで、「あの悪名高き生活単元学習」と表現されることもしばしば。「戦前に比べると、1年ないしは2年のおくれ」を示したといいます。

そんな「生活単元学習」の問題点を指摘し、積極的に「系統学習」を推進した数学者に遠山啓(とおやまひらく:1909-1979)がいます(*2)。その生涯については下記の本がおススメ。

遠山は次のように書いています。

このやりかた(生活単元学習)は、ちょっと考えると、子どもの興味を重んじたすぐれた方法であるように思える。しかし、現実にこれを教室でやってみると、多くの欠陥をもっていることがわかってきた。
(遠山啓「学力低下の回復をはかれ」、1955年)

その欠陥とは、まず「生活経験というものが、偶然の要素の集まりであって、本来は何も系統もないために、数学のもっている系統性を乱してしまう」ということ。次に、「教育全体の中で数学が不当に軽視されていて、時間数なども、文明国ではもっともすくない」ということ。さらには「教科内容がいちじるしく消費的である」ということ。

「生活単元学習」への反省から生まれた「系統学習」は、その名称からもわかるように、なによりも「系統」を重視しました。算数・数学は、「たし算、ひき算というように順序正しくならんでいる」が、生活はそうはなっていないために、「数理というものがバラバラな形で子どもの頭の中に入ってしまう」。さらには「あちこちコマ切れのようにあらわれるので、集中的な練習(=計算練習)ができない」という。

この計算の練習が少なくなることを、遠山は別の場所でこう書いています。

生活には体系はない。しかし、計算には体系がある。だから、指導要領のいうように、「生活経験によって組織し」ようとすると、二元論が避けられなくなる。だから、計算練習だけが継子扱いされて欄外にはみ出してくる。(中略)“考える”ことと“計算する”ことは分離すべきではなく、有機的に統一さるべきである。
(遠山啓「教科書管見」、1953年)

あぁ。たしかに先にみた「単元7 私たちの住居」は、読み物としてはともかく、数学の教科書としてみた場合には、話があっちこっちにいって「コマ切れ」になっています。すでにそうした知識や計算方法を習得している上での応用問題ならともかく、はじめて学ぶ内容だとしたら散漫なものとなるのは間違いなさそう。追い打ちをかけるように遠山は言います。「中学になってまで“遠足”とか“子供銀行”に結びつけなければ数学が教えられないものだろうか」と(遠山啓「戦後の数学教育」掲載誌不詳)。

さらに「教科内容がいちじるしく消費的」という問題指摘は、具体的には次のようなものでした。

“生活に役立つ”ということは生活単元学習の掲げる主要なスローガンの一つであるが、そこでいう生活は、主として“買物” “貯金” “保険” “株式”などという消費生活にかぎられている。積極的にものを創りだしていく生産活動はすべて姿を消してしまっているのがいちじるしい特徴である。
(遠山啓「学力低下の回復をはかれ」、1955年)

ちなみに、この「生活単元学習」は戦後日本の「新教育」として鳴り物入りで導入された経緯からもわかるように、戦勝国アメリカから移入されたものです。その思想的な背景にはデューイの教育思想だとか、あるいはプラグマティズムの影響があるそうですが、そこは深追いしないことに。

あと「生活単元学習」という学習スタイル自体がアメリカで生まれたのは経済恐慌の頃、ニューディール政策まっさかりの時代なのだそう。

もともと生活単元学習はニューディール時代のアメリカで生まれたものといわれるが、生産過剰に悩んでいた時代の数学が消費中心となることは当然であろう。(中略)独立の科学技術をもたず、重要な工業製品はもっぱら本国からの輸入に頼っている植民地では、新しい技術を生みだすような教育は望ましくないだろう。そのような国の数学教育は“損か得か”の金勘定にかぎられる必要があろう。
(遠山啓「学力低下の回復をはかれ」、1955年)

ここまできて、遠山が批判の矛先を向ける「生活単元学習」が、本来、数学がもっている「系統」を無視した教育方法になっているという意味だけでなく、占領国アメリカによって押しつけられた「植民地の数学教育」への危機感を伴うものだと合点いくのです。

戦後日本社会と数学教育

戦後すぐ、生活経験から学ぶ「日常の数学」という試みがあったんだなぁ、へぇ~という関心から掘り進めた先に、戦後日本におけるGHQ/CIEの占領政策だとか、そのベースにあるニューディール政策だとか、そうした「新教育」への反発という動きが出てきてホヘーな気分。でも、1950年代の出来事というのは、そういうことなんだなぁ、と改めて気づきます。

遠山啓の指摘にもうすこし耳を傾けてみましょう。

子供たちをすべて従順な兵士に仕上げることを目的とした過去の軍国主義の教育は、子供の自発性を尊重するどころか、そのようなものを双葉のうちに摘みとることを目ざしていた。これは隠れもない事実であった。“生活単元”は、このような軍国主義教育を否定し、子供の自発性を王座にすえ、詰め込みを排斥する点で、確かにすぐれた一面を持っていた。子供は自発的に活動できるので、思うがままに個性をのばすことができる。子供の興味を中心に学習するので、子供たちは無理なく、おもしろく学習できる。
(遠山啓「練習と興味」、1953年)

なるほど、ここにも戦争の爪痕があるのでした。「戦争中の有無を言わさぬ詰め込み教育と、個性を圧し殺す軍国主義教育に不満を持った心ある教師たちにとって、一つの救いとして受け取られ、熱烈な信奉者をかち得た」のでした。

しかしながら、先述したとおり「生活単元学習」は思うような成果を上げることができず、かえって学力低下を招くことになりました。遠山はさらにこう言います。

アメリカ式“新教育”のもっている一つの大きな欠点は、教育をキレイ事だと考えて、模倣とか練習とかいう、地味ではあるが、教育にとって不可欠で困難な基礎工事を軽蔑する空気を教育者の間に吹き込んだ点にあると思う。
(遠山啓「練習と興味」、1953年)

さらに、「生活単元学習」が掲げる「生活的興味」にも遠山が疑問を投げかけます。「生活的だから無条件に興味があると言い切れるだろうか」と。むしろ「知的興味」だってある。というか、「生活的興味」に教師は不要ながら、「知的興味」には教師の指導を必要とする場合が多い、と。

結局、「生活単元学習」は、「私たち」と「日常」を結びついた数学を学ぶというコンセプト自体は大きく間違ったものではなかっただろうに(遠山自身も生活を学びの導入に用いることには賛成している)、戦時中になされた教育への嫌悪と否定が際立ち過ぎたがために、あらぬ迷走へと至ってしまった感があります。

日本の教師たちが数十年にわたってつみ上げてきた指導法は、直接・間接に戦争に協力したという責任まで問われることになり、一切合財が投げすてられてしまったのである。このようなやりかたの責任の一半が占領軍にあることはもちろんであるが、他の一半がわれわれ日本人の側にあることも忘れてはならない。過去において蓄積された遺産や伝統を、惜しげもなく投げすてることのできる特異な才能をわれわれ日本人はもっているように思われてならない。
(遠山啓「数学教育の10年」、1955年)

「特異な才能」とはまさに皮肉なわけですが、言いえて妙なのもまた事実。たしかに「生活」対「系統」という対立図式はなんか現在でも既視感ありありです。

「生活単元学習」批判にみられる主張とて(1950年代という時代の刻印はあれども)「生活単元学習は戦後アメリカの押しつけ」とか「有閑消費生活を扱う経済問題ばかり」などなど多分に左派の香りがする内容。実際に、この教育思想の対立は、議会での与党・野党対立と足並みをそろえる部分もあったのだそうです。

その後も、学習指導要領が改訂されるたびに、「現代化」だとか「基礎・基本」だとか「ゆとり」などなど、その時代背景に即した路線の見直しがたびたび重ねられてきたわけですが、その流れはあたかもクラシックとバロックを行ったり来たりする様式史のスパイラルを見ているよう。

「戦後の数学教育の中でもっとも多く使われたのは、何といっても“生活” “経験” “問題解決”などという言葉であった」と聞くと、そうか、「総合学習」はいってみれば「生活単元学習」のリバイバルなのだなと気づくのです。「分析」ばかりで「総合」がないという批判は、まさに「生活」対「系統」の際に見出された対立軸なのですから。

住経験の戦後

生活経験を学習に結び付けることの難しさ、人間の認識の構造を見誤った例として、遠山は「温泉のわく原因を考えさせるため」の現場見学のエピソードを挙げています(アンチ生活単元学習の遠山ばかり引用するのはフェアではありませんが、ほかに数学教育関連の本が身近にないのでご容赦ください)。

子どもたちの注目の的になったのは、温泉の原理ではなく、温泉の湯ぶねには円形のものや楕円形のものや長方形のものがある、という点であったという。(中略)子どもたちが目にみる温泉という一つの現象はきわめて複雑であり、多方面であり、統一しにくく、雑多である。したがって、子どもたちが温泉という雑多な現象のどのような側面に興味をもち、注目するかはあらかじめ知ることができない。(中略)生活単元学習を徹底しようと努力した良心的な教師はみな子どもたちの関心が発散してしまうことに悩まされたのである。
(遠山啓「系統学習の意味」、1958年)

「生活体験」は学習の素材とするにはノイズが多すぎる。結局はすでに得ている問題関心でしか見ることはできない。それゆえ「導入の部分に日常経験がくることは望ましいことであるが、日常経験に終始することはできない」ということ。さらに、学習した内容を踏まえてふたたび「日常経験」へとフィードバックすることが理想だと遠山は語ります。つまりは、「生活」対「系統」の対立は、そもそも二択問題になっている点で話がおかしいということ。

さてさて、随分と当初の問題関心から逸れてしまいました。

数学研究委員会編『日常の数学・新訂版』が出版されたのは1952年。2年前には住宅金融公庫が設立されます(この組織自体も「生活単元学習」と同様にニューディール政策の刻印を受けています)。また、太平住宅・日本電建・殖産住宅という、いわゆる「割賦三社」の住宅割賦販売もスタート。日本の住宅政策は「持ち家主義」へと大きく舵を切っていきます。

『日常の数学』で学んだ生徒さんたちが成人して住宅取得を考えるようになった頃、1966年になると、日本不動産銀行(後の日本債券信用銀行)による長期住宅ローンがサービス開始されています。住宅はローン(借金)をして取得するものだという家づくりの「作法」が確立されたのです(「ローン」という言葉自体もこの頃から使われ始めたのだそう)。

そのあたりの経緯は以前こちらに書きました。

はたして、「生活単元学習」で「単元7 私たちの住居」を学び、考えた人々はどんなマイホームを獲得したのか。さらには「系統学習」によって数学を学んだ人々はどうだったのでしょうか。たぶんいずれもそう大きくは変わらなかったのではないでしょうか。

「単元7 私たちの住居」で学んだ内容は、それが定着していようがいまいが、住宅価格の高騰と、住宅の商品化のなかで選択の余地などない現実にぶちあたることになりました(図5)。

ダイワハウス・緑が丘ネオポリス

図5 大和ハウス工業による住宅地分譲

カングリー精神をはたらかせるなら、もしも選択の余地があったとしても、数学は数学、マイホームはマイホームとして「総合」されぬままに置かれたのでは。そう思えてきます。遠山が懸念した「消費生活偏重」な教育内容という問題が杞憂であるほど「生活単元学習」は上滑りしたのかもしれません。

でも、だからといって「私たち」と「日常」を結びつけつつ学ぶというコンセプトは甘美な魅力、キュートな響きをもって余りあります。問題はその結びつけ方。そのためのヒントは、算数・数学教育だけに限っても膨大な知見と失敗事例が蓄積されているのです。

なお、ここでは触れることができませんでしたが、『日常の数学』の初版(1950)や、それに先行して「生活単元学習」のモデル教科書とされた文部省著作教科書『中学生の数学・第一学年用』(1949)については、また稿をあらためて書いてみたいと思います。

(おわり)


1)戦後日本の算数・数学教育がたどった歴史は、大日本図書による「教科書いまむかし」がわかりやすくまとめられています。
https://www.dainippon-tosho.co.jp/math_history/index.html
2)文中に引用した1950年代に発表された遠山啓の文章は、『遠山啓著作集・数学教育論シリーズ 第2巻:数学教育の潮流』(太郎次郎社、1980年)に収録されています。また「生活単元学習」批判は、『遠山啓著作集・数学教育論シリーズ 第13巻:数学教育の改革運動』(太郎次郎社、1980年)や『遠山啓著作集・数学論シリーズ 第1巻:教育の理想と現実』(太郎次郎社、1980年)でも読むことができます。

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