[note39]板書は消えゆくのか?
「板書」、してますか?
いきなりの変な問いかけですが、生徒達は一人一台の端末を持ち、教科書や資料集がデジタル化され、これまで作ったプリントもPDF化することで簡単に生徒と共有することができる時代です。「板書はほぼしていない」という声も聞くようになりました。以下の記事は2015年のものですが、Beforeコロナです。あれから一層の教育におけるICT化が進んでいるわけで、チョークの苦境は更に進んでいると思われます。
(穴埋め)プリントor板書
特に大学受験段階になると、授業内容と時間との戦いです。勤務校では高校の地歴公民科は基本的にプリントベース。以前、noteで「穴埋めプリント」の是非について考えたことがありました。私は現在、高校3年生の政治経済と高校1年生の公共を担当しています。公共では補足程度にしか板書はしていません。その代わりに生徒の意見共有、集約などの時間に充てています。書くことよりも考えること、書き出すこと、聞くこと、まとめることを重視しているためです。実際、授業プリントは配布しますが、完成形はCanvaで作成したスライドで提示しています。
一方、より多くの項目を扱う政治経済では最初に板書をしています。
教える項目が多いので、A4のノートページに収まるように内容を圧縮して、板書案を作り、実際には生徒とのやり取りで加筆していく形です。
板書事項をプリント化したら、どうなる!?
こう考えて、放課後の講習でやってみました。ところが、どうにもしっくりこない90分になりました。生徒からすれば、予めプリント化されていれば楽であるし、教師側も必要事項以外を書き込む必要がないので時間の短縮になります。ところが、同じことでも何となく感覚が違っていました。説明が難しいのですが、プリントは形式化され、教師によってまとめられ、ある程度完成された文書、板書は必要に応じて生徒の疑問や問いをアレンジする物語のような違いを感じていました。
・板書事項のプリント➡効率的・再現度が高い
・板書➡自由度が高く、板書を生徒との協働作業で作成する余地がある
もちろん、プリントでも協働作業はできるわけですが、何か違う・・・。
自分が抱いた違和感は何でしょうか?このことをfacebookに投げてみると、面白いコメントをいただきました。以下の引用はヤクルト・阪神・楽天で監督を務めた野村克也さんが著書で述べていたことだそうです。
板書について、その存在意義を二項対立的に考える必要はありません。
ICTによる授業も、板書を使った授業にも、それぞれの特徴(利点と欠点)があるからです。しかし、今日、「書く」という行為が次第に存在感を失っているように思います。一方で、ベストセラーとなった前田裕二さんの『メモの魔力』のように「書くこと(メモを取ること」について、改めて定義づけした書籍もあります(ここではメモと板書は少し話が違いますが…)
学校における「書く」という行為の在り方
これは必要に応じて見直す必要があるケースは多々あります。目的が明確でなく、「書くこと」が目的となっているケースは多々あるからです。そして社会科(地歴公民科)では、しばしば「書く」という「作業」が授業の多くを占めるケースもまだまだあるでしょう。本当の意味で「書く」とは、どういうことだろう?毎日のようにモヤモヤが続く中で、また新しいモヤモヤが登場してしまいました。日々、疑問ばかりnoteに投稿していますが、「モヤモヤを一緒に議論しても良いですよ!」という方、「自分はこう考えています」というコメント、随時、お待ちしています!!